ろ。名札紙《なふだがみ》を買わせて、新しく書けばいいものを、たとえ紙一枚でも無駄になさらぬ節倹なお心がけ。一国をあずかる御家老とは、実にかくありたいもの。いや、冷かしてるんじゃありません。ほんとうの話。……ところが、どうして更科というかというと、失礼ながらあなたのお顎に、お蕎麦《そば》のくずが……」
 あわてて顎を撫でるので、さすがの顎十郎、たまりかねてヘラヘラと笑いだし、
「ついているとは申しておりません。もっと確かな証拠は、あなたの襟にさした爪楊子《つまようじ》。その平《ひら》に、真砂町更科と刷ってある。いけませんね、これじゃアわざわざ日本橋を大まわりして来たかいがない。いわばまるであけすけ。いくら突っぱってもこう尻ぬけじゃなんにもならない」
 石口十兵衛は、膝に拳をおいて、凝りかたまったようになっていたが、突然、畳の上に両手をすべらすと頭をさげ、
「御眼力、……御明察。かくほどまでとは、思いもかけませんことで……なんともはや……」
 顎十郎は、またとぼけた顔つきになって、
「いや、そうまでおっしゃることはいりません。あなたのように細心緻密な方が、ひとにものをたのむときは、どういう
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