ろうと、それはすんだことだ。いよいよもって物騒な形勢だから、黙っているわけにはゆかない。いかに悪因ばらいとはいいながら、あんなやつに殺《や》られてしまっちゃなにもならない。どうでもここは立退かせて、もっと別なところへ……」
といいながら、また一歩ふみだそうとすると、千鳥の啼《な》くような鋭い空《そら》鳴りがして、どこからともなく飛んできた一本の小柄《こづか》、うしろざまに裾をつらぬき、ピッタリと前裾のところを縫いつけた。ちょうど足架《あしかせ》をかけられたように、裾にひきしめられて、足がきすることも出来ない。顎十郎はまた、アッと恐悚《きょうしょう》の叫びをあげ、
「こいつアいけない。あの二人に近づこうとすると、かならずやられる。いわんや、俺の手にたつような相手じゃない。へたにガチ張ったら、たったひとつの命を棒にふる。こういうときは、尻尾を巻いて逃げるにかぎる」
蹲《つくば》って小柄をぬきとって、草の上へほうりだすと、頭をかかえて、むさんに川下のほうへ逃げだした。
それから十日ほどのち、向島《むこうじま》の八百松《やおまつ》の奥座敷。顎十郎と藤波のふたり。
「……御承知の通り、江
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