《わしげおとし》。これほどにつかえるやつは、日本ひろしといえども二人しかいない。ひとりは備中《びっちゅう》の時沢弥平《ときざわやへい》、もうひとりは、越前大野《えちぜんおおの》の土井能登守《どいのとのかみ》の嫡子土井|鉄之助利行《てつのすけとしゆき》。が、このほうは、もう十年も前からこの世にいないひと。それにしても時沢弥平が、この俺に斬ってかかる因縁《いんねん》はないはずだが……。奇態《きたい》なこともあるものだ。……俺のいたところは土手のおり口だったから、岡埜の裏手までは、すくなくとも六間はある。どれほど精妙な使い手でも、俺に斬りかけておいて、あれだけのところを、咄嗟に飛びかえり、建物のかげに身をかくすことなど、いったい出来るものではない。土手下まで駈けおりたのが大幅で三歩、時間にすればほんのまばたきふたつほどする間。そこで振りかえって見れば、もう人影はない。とてもそんなことが出来ようわけがない。とすると、俺の気だけだったのか知らん」
首をふって、
「いやいや、そんなことはない。たしかにまっぷたつにされたような気持だった」
といいながら、また額の汗をぬぐい、
「しかしまあ、どうあ
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