つぶやいていたが、急に気をかえて、
「ここにいるとわかったら、これで俺の役目はすんだようなものだが、それにしちゃア場所が悪い。どれほどうまく化けこんでも、いずれ藤波に見やぶられるにきまっている。萩之進のほうじゃ、こうまで大掛りに探されているとは知らないから、それでこんなところでまごまごしているんだろうが、こりゃア実にどうもあぶない話。そばへ行って、それとなく耳打ちをしてやろう」
 といいながら、ひと波をわけて岡埜の前をまわり、土手をおりて、ふたりのほうへ近づこうとするそのとたん、骨に迫るようなするどい気合とともに、右の肩のあたりに截然《せつぜん》とせまった剣気。思わず、
「オッ」
 と、叫んで咄嗟に左にかわし、一気に土手下まで駈けおりて足場を踏み、柄《つか》に手をかけてキッとふりむいて見ると、誰もいない。岡埜の幟《のぼり》が風にはためいているばかり。
 ビッショリと背すじを濡らす悪汗《わるあせ》をぬぐいながら、さすがの顎十郎も顔色をかえて、
「実に、どうも凄い剣気だった。うっかりしていたら、まっぷたつになるところ。いまの居合斬《いあいぎ》りは柳生新陰流《やぎゅうしんかげりゅう》の鷲毛落
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