《わしげおとし》。これほどにつかえるやつは、日本ひろしといえども二人しかいない。ひとりは備中《びっちゅう》の時沢弥平《ときざわやへい》、もうひとりは、越前大野《えちぜんおおの》の土井能登守《どいのとのかみ》の嫡子土井|鉄之助利行《てつのすけとしゆき》。が、このほうは、もう十年も前からこの世にいないひと。それにしても時沢弥平が、この俺に斬ってかかる因縁《いんねん》はないはずだが……。奇態《きたい》なこともあるものだ。……俺のいたところは土手のおり口だったから、岡埜の裏手までは、すくなくとも六間はある。どれほど精妙な使い手でも、俺に斬りかけておいて、あれだけのところを、咄嗟に飛びかえり、建物のかげに身をかくすことなど、いったい出来るものではない。土手下まで駈けおりたのが大幅で三歩、時間にすればほんのまばたきふたつほどする間。そこで振りかえって見れば、もう人影はない。とてもそんなことが出来ようわけがない。とすると、俺の気だけだったのか知らん」
 首をふって、
「いやいや、そんなことはない。たしかにまっぷたつにされたような気持だった」
 といいながら、また額の汗をぬぐい、
「しかしまあ、どうあろうと、それはすんだことだ。いよいよもって物騒な形勢だから、黙っているわけにはゆかない。いかに悪因ばらいとはいいながら、あんなやつに殺《や》られてしまっちゃなにもならない。どうでもここは立退かせて、もっと別なところへ……」
 といいながら、また一歩ふみだそうとすると、千鳥の啼《な》くような鋭い空《そら》鳴りがして、どこからともなく飛んできた一本の小柄《こづか》、うしろざまに裾をつらぬき、ピッタリと前裾のところを縫いつけた。ちょうど足架《あしかせ》をかけられたように、裾にひきしめられて、足がきすることも出来ない。顎十郎はまた、アッと恐悚《きょうしょう》の叫びをあげ、
「こいつアいけない。あの二人に近づこうとすると、かならずやられる。いわんや、俺の手にたつような相手じゃない。へたにガチ張ったら、たったひとつの命を棒にふる。こういうときは、尻尾を巻いて逃げるにかぎる」
 蹲《つくば》って小柄をぬきとって、草の上へほうりだすと、頭をかかえて、むさんに川下のほうへ逃げだした。

 それから十日ほどのち、向島《むこうじま》の八百松《やおまつ》の奥座敷。顎十郎と藤波のふたり。
「……御承知の通り、江
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