顎十郎捕物帳
丹頂の鶴
久生十蘭

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)恒例《こうれい》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)北町奉行|永井播磨守《ながいはりまのかみ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「知」の「口」に代えて「舟」、第4水準2−82−23]
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   二の字の傷

 恒例《こうれい》の鶴御成《つるおなり》は、いよいよ明日にせまったので、月番、北町奉行|永井播磨守《ながいはりまのかみ》が、城内西の溜《たまり》で南町奉行|池田甲斐守《いけだかいのかみ》と道中警備の打ちあわせをしているところへ、
「阿部さまが、至急のお召し」
 と、お茶坊主が迎えに来た。
 鶴御成というのは、十月の隅田川、浜御殿の雁《かり》御成、駒場野の鶉《うずら》御成、四月の千住三河島《せんじゅみかわしま》の雉《きじ》御成とともに将軍鷹狩のひとつで、そのうちにも鶴御成はもっとも厳重なものとされていた。
 九代将軍が鷹狩でえた鶴を朝廷に献上して御嘉納《ごかのう》をうけてから、爾来、年中の重い儀式となり、旧暦十一月下旬から十二月上旬までの、寒の入りの一日をえらんで、鶴|御飼場《おかいば》の千住小松川すじでおこなわれたもので、最初にとらえた鶴は、将軍の御前で鷹匠頭《たかじょうがしら》が左の脇腹を切り、臓腑を出して鷹にあたえ、あとに塩をつめて創口を縫いあわせ、その場から昼夜兼行で京都へ奉る。街道すじでは、これを、『お鶴さまのお通り』といった。
 その後にとらえた鶴の肉は、塩蔵して新年三ガ日の朝供御《あさくご》の鶴の御吸物《おすいもの》になるので、当日、鶴をとらえた鷹匠には、金五両、鷹をおさえたものには金三両のご褒美。鶴をとらえた鷹はその功によって紫の総《ふさ》をつけて隠居させる規定。なお、当日、午餐《ひるげ》には菰樽《こもだる》二|挺《ちょう》の鏡《かがみ》をひらき、日ごろ功労のあった重臣に鶴の血をしぼりこんだ『鶴酒《つるざけ》』を賜わるのが例になっていた。
 文化のはじめごろまでは、鶴御飼場は、千住の三河島、小松川すじ、品川目黒すじの三カ所にあったもので、いずれも四方にひろい濠《ほり》をめぐらして隣接地と隔離させ、代地《しま》と陸地《くが》との交通は、御飼場舟という特別の小舟で時刻をさだめて行うなど、なかなか厳重をきわめたものであった。嘉永のころになって、多少ゆるやかになったが、それでも、このころもまだ、御飼場の鶴を殺したものは死罪、傷つけたものは遠島に処せられる。
 御飼場には、だいたい、おのおの十五カ所の代《しろ》(季節によって鶴が集まる場所)があって、鳥見役という専任の役人が代地を管理し、六人の網差《あみさし》と下飼人《したがいにん》が常住《じょうじゅう》にそこにつめていて、毎日三度ずつ精米五合をまき、代地におりてきた鶴をならす。
 飼いならすのにいろいろな方法があるが、鶴がひとを見ても恐れぬようになると、鷹匠が飼場を検分したのち、そのむねを若年寄《わかどしより》に上申する。若年寄と老中《ろうちゅう》が相より協議の上、鶴御成の日時をさだめて将軍に言上するのである。
 永井播磨守と池田甲斐守が、大廊下を通って柳営《りゅうえい》の間《ま》へ行くと、老中|阿部伊勢守《あべいせのかみ》は待ちかねていたようにさしまねき、寛濶《かんかつ》に顔をほころばせながら、
「いつもながら、お役目大儀。国をあげて外事に没頭し、たれもかれも、派手派手しく立働いているが、眼に見えぬ御両所の秘潜《ひせん》のお骨折があればこそ、ゆるぎなく御府内の安寧がたもっておる。まずまず、お礼の言葉もない。……ところで、明日はいよいよ鶴御成。国事多端のおりからにも古例を渝《か》えたまわず、民情洞察の意をもって鷹野の御成をおこなわせられること、誠にもって慶祝のいたり、物情騒然《ぶつじょうそうぜん》たる時勢、御道中警備の手はずには、もとよりぬかりのないことであろうが、それについて……」
 といって、こころもち膝をすすめ、
「……ここに、意外なことが出来《しゅったい》したというのは、ほかでもない。お上がかねてお手飼いなされ、ことのほか御寵愛なされた『瑞陽《ずいよう》』ともうす丹頂の鶴。……いかなる次第か、この夏ほどよりおいおい衰弱いたすので、小松川の御飼場へお渡しになり、下飼人|十合重兵衛《そごうじゅうべえ》というものに介抱をお命じになっていたが、今朝ほど重兵衛が代のかこいに入って見ると、『瑞陽』のお鶴が死んで水に浮かんでおった」
 ゆっくり、苦茗《くめい》をすすり、
「……鳥見役、網差、両名立ちあいにてお鶴医者|滋賀石庵《しがせきあん》が羽
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