交《はがい》の下をあらため見たところ、胸もと、……心の臓のまうえあたりに二の字なりの深創《しんそう》がある。小松川すじの飼場濠には、水蛭《みずひる》が多く棲んでおるゆえ、創のかたちをもって案ずれば、水蛭の咬み傷と見て見られぬこともない。しかし、水蛭の咬み傷とすればただ一カ所というのが不審。それに、それしきの傷で鶴が死するはずがない。また前例もないこと」
甲斐守は膝をにじり、
「して、石庵の検案は」
「刺傷《さしきず》らしいと申す」
といって、言葉を切り、
「……かりに刺傷だとして、しからば何者がなぜにそのようなことをいたしたか、その理由がげせない。お鶴を刺しころして見たとて、なんの利分《りぶん》もあるまい。……狂気か酔狂か。……まず、そうとしか考えられぬ」
播磨守はうなずいて、
「いかにも、そのへんが不審」
「このたびの鶴御成は、儀式のお鷹狩のほか、すこやかな『瑞陽』のすがたを御覧になる思召《おぼしめ》しもあられたので、上にはことのほか御落胆。死因をきわめて、ぜひともその理を分明《ぶんみょう》させよとのお達しである。……それはそうと……」
といって、播磨守の顔を眺め、
「そのほうの下役、仙波阿古十郎というは、まことに奇妙なやつの。もと甲府勤番の伝馬役《てんまやく》であったと申すが、なにしろ、ふしぎな理才を持っておるよし」
播磨守は、誇らしげにうっすらと面《おもて》を染め、
「御意にございます」
「それに、だいぶ変った面《つら》をしておるそうな」
播磨守は苦笑して、
「それが、はや、下世話に申す、馬が提灯。いかにも異様な顎なり。よって顎十郎というが通り名になっております」
伊勢守はおもしろそうにうなずきながら、
「聞いておる、聞いておる。諸葛孔明の面の長さは二尺三寸あったとか。異相のものには、とかく大智奇才が多い。……南に藤波友衛、北に仙波阿古十郎。近来、たがいに角逐競進《かくちくきょうしん》することは、すでに上聞《じょうぶん》に達している。されば……」
と、両奉行の顔を見くらべるようにして、
「今後いっそうの励みにもなろうと存じたにより、『瑞陽』とりしらべの件につき、両人|相吟味《あいぎんみ》、対決をねがいあげたところ、やらせて見い、との仰せ。……よって、明日、お鷹狩の後、お仮屋寄垣《かりやよせがき》のうちにて、両人の吟味問答をお聞きになる」
吟味、捕物の御前試合《ごぜんじあい》などはまさに前代未聞《ぜんだいみもん》。さすがに、両奉行もあっけにとられて、茫然《ぼうぜん》たるばかり。
伊勢守は、依然たる寛容の面もちで言葉をつづけ、
「当日は、両人とも鷹匠頭副役の資格。装束は役柄どおり、弁慶格子半纒《べんけいごうしはんてん》、浅黄絞小紋《あさぎしぼりこもん》の木綿股引《もめんももひき》、頭巾《ずきん》、背割《せわり》羽織をもちいること。……両人は、辰の刻、お仮屋前にてお出むかいいたし、お鷹狩のあいだに代地《しま》ならびに代のかこいの検証をすませておく。午の下刻《げこく》、上様ご中食《ちゅうじき》の後、お仮屋青垣《かりやあおがき》までお出ましになるが、特別の思召しをもって、垣そとにて両人に床几《しょうぎ》をさしゆるされる。……介添《かいぞえ》はおのおの一名かぎり。先番《せんばん》は籤《くじ》にてきめ、各自、死体見分がおわらば、ただちに、御前にて吟味のしだいを披露いたす。……いかなる次第にて死亡いたしたものか。また、人手にかかったものならば、いかなる方法、いかなる理由によってかような無益なことをしたか、本末をわけ、明白なる理を推して、即座にお答え申しあげねばならぬ」
甲斐守は、緊張で蒼ざめた顔をふりあげて、
「さきほど相吟味、問答対決と仰せられましたのは?」
伊勢守はニンマリと笑って、
「そこが、真剣勝負。相手の吟味に異存あらば、反駁《はんばく》反撃は自由。相手が屈服するまで、討論いたしてさしつかえない」
「ははッ」
「吟味聞役《ぎんみききやく》は、佐田遠江守《さたとおとおみのかみ》。審判役は手前があいつとめる。対決終了いたさば、石庵がお鶴の腑分《ふわけ》をなし、両人吟味の実証をいたす。……勝をとったほうには、奉行へご褒美として時服《じふく》ひと重《かさね》。吟味のものには、黄金五枚、鶴の御酒一|盞《さん》くだしたまわる。……晴れの御前試合。どちらもぬからぬよう、じゅうぶん勉強いたすよう申し聞かせ」
「はッ」
「委細《いさい》、承知いたしました」
両奉行は西の溜へとってかえすと、あわただしく下城の支度をはじめる。……一刻も早くこのむねを伝えて、万事ぬかりなく準備させねばならぬ。将軍御前で、万一、相手に言い伏せられるようなことでもあったら、それこそ、奉行たるものの面目はない、一期《いちご》の恥辱。
佐田遠江守
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