が、簡単に明日のうちあわせをしておこうと、下城口までふたりを追いかけて来て、
「しばらく……」
と、声をかけた。両奉行は式台《しきだい》で、
「は?」
と、いっせいに振りかえったが、どちらも生きたような色はしていなかった。
前夜
走るように書院に入ってきて褥《しとね》につくと、甲斐守は手焙《てあぶり》にもよらず、いきなり、
「委細は、すでに、組頭、柚木伊之助《ゆのきいのすけ》から聞きおよんだであろうが、なんとしても、このたびのことは、容易ならぬ仕儀」
と、一口に言うと、端正な面をあげて見すえるように相手の顔を眺める。
こちらは、かすかにうなずいただけ。
「江戸一の折紙《おりかみ》のついたそちのことであるから、よもや、ぬかりもあるまいが、創口を一瞥《いちべつ》いたしただけで、手口、情況、兇器の種類、下手人の人別、下手の動機にいたるまで、その場でご即答もうしあげねばならぬということであれば、なかなか、たやすからぬこと」
といって、返事を待つように、またジッと相手の顔を見つめる。
相変らず、ウンともスンとも音沙汰がない。削竹《そぎたけ》のようにトゲトゲと骨ばった顔をうつむけ、薄い唇をひきむすんで、むッつりと坐っている。
藤波友衛、南町奉行所の控同心。捕物にかけては当代随一、どのような微妙な事件でも、袋の中のものを探すようにやすやすと解く、一種の鬼才。
ただ、狷介なのが玉に傷。むッつり不機嫌は毎度の例だが、今晩のようすはいつもとはすこしばかりちがう。眉のあいだがうす黝《ぐろ》く翳《かげ》ったようになり、まじろがぬ、刺すような眼ざしの中にも、なにか必死の色がほの見える。
甲斐守は言葉をついで、
「なににいたせ、明日にさしせまった相吟味。時刻とても、はや、いくばくもない。御飼場のかこいうちの検分、『瑞陽』の検死は、もとより明日のことにさだまっておるが、咄嗟のことでは思うような調べも出来まいから、今宵のうちに、およぶかぎりの手をつくしておかねばならぬ。……それについて、小松川鶴御飼場の図面と代地の地理に通じおるお鷹匠をひとり拝借する手はずにいたしておいた。その者にたずねれば、代のありど、かこいの数、濠割の間数、深さ。……また流れの模様もことごとく分明いたすであろう。もう、来着《らいちゃく》いたしたであろうから、さしつかえなくば、ここへ呼び入れるが……」
ようやく、返事があった。
「御無用と存じます」
甲斐守はキッとして、
「無用とは、なにゆえの?」
「それは、明日、見分いたします」
「しかし、今も申した通り……」
「御無用にねがいます」
と、にべもない。甲斐守は、むっとしたようすで、ちょっとの間おし黙っていたが、やがて、しいて顔色をやわらげ、
「……なにか存じよりのあることであろうから、無理にとは申さぬが、せめて、滋賀石庵にだけには逢っておくがよかろう。……どのような有様で水に落ちていたか、流れの方向、水藻のぐあいなども、あらかじめ承知しておったら、なにかにつけて便利であろうと思うが……」
「なにとぞ、それも、御無用にねがいます」
「なにか仔細《しさい》があるのか?……無用、とだけではわからぬ」
藤波は蒼白《あおじろ》んだ、険相《けんそう》な顔をゆっくりとあげると、
「それでは、たとえ、勝をとりましても、勝ったことになりません」
「異《い》なことを申すの。戦場の駈けひきは、あらかじめ十分に謀《はか》るにある。北町奉行所《きた》とても、そのへん、ぬかりなく手をつくしているであろう。いわば、お互いのこと。うしろ暗いことなどいささかもあるまい」
「それが、今度は、そういうことにはなりません」
「なんと申す?」
「実は、仙波阿古十郎が、四五日前から行きがた知れずになっております」
「なに!……仙波が……」
「四五日前、大利根《おおとね》すじへ寒鮒《かんぶな》を釣りに行くといって、フラリと出かけたまま、今日にいたるまで消息がございません」
「おッ、それは!」
「正午《ひる》ごろから、北町奉行所ではひっくりかえるような大騒ぎ。さっそく御蔵河岸《おくらがし》から早船を五艘、突っこみにして利根すじへのぼらせましたが、ひとくちに利根と申しても広うございます。安房におりますものやら、上総におりますやら、とんと見当がつきません」
「これはしたり」
「何しろ、有名《なうて》の風来坊、気がむけば、風呂屋からその足で長崎まででも行きかねないやつ。はたして神妙に釣などしているのかどうか、その辺のことさえ、さだかじゃございません。……運よく、北浦《きたうら》か佐原《さわら》あたりでとっつかまえたといたしましても、こちらへ帰りつきますのは、早く行って明日の夜あけ。お仮屋前でお出迎いするのが、やっとというところ」
「いかにもの」
「叔父の
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