るようなことはいたしますまい。藤波氏のお意見ではありますが、このかこい場に餌盗びとなどはこれなく、したがって水矢の、手突矢のということは、まったくいわれのないことと存じます」
 このとき、はるか下座にひかえた下飼人の中で、わッと声をあげて泣き伏したものがある。顎十郎は、そんなことに頓着《とんじゃく》なく、いっそう声をはりあげ、
「そもそも、鶴は凡禽《ぼんきん》凡鳥ならず。一挙に千里の雲を凌《しの》いで日の下に鳴き、常に百尺の松梢《しょうしょう》に住んで世の塵《ちり》をうけぬ。泥中に潜《せん》してしかも瑞々《ずいずい》。濁りに染まぬ亀を屈《くつ》の極といたし、鶴を以て伸《しん》の極となす。……『古今註《こきんちゅう》』に、『鶴は千歳《せんざい》にして蒼《そう》となり、二千歳にして黒《こく》、即《すなわ》ち玄鶴《げんかく》なり。白鶴《はっかく》もまた同じ。死期を知れば、深山幽谷《しんざんゆうこく》にかくれて自《みずか》ら死す』とございます。……見うけるところ、『瑞陽』のお鶴は、白鶴。すでに二千年の歳をへ、上に齢をゆずって自ら死したるものに相違ございません」
「その証拠は?」
「その証拠は、これなる胸もとの二の字の傷。これは、手突の鏑矢などにて出来たものではございません。『瑞陽』のお鶴が嘴《くちばし》をもって自ら心の臓をついたものに相違ありません。……いやさ、傷口に嘴などをおあわせになる必要はない。傷口が嘴に相応しようとしまいと、正にただいま申しあげた通りにちがいありませぬ。……齢を鶴よりゆずらせられ、上の御長寿は千歳万歳。まことに、祝着しごくにございます」
 阿部伊勢守が、おお、と立ちあがる。それとほとんど同時に、将軍は床几の上でサラリと白扇をひろげ、感悦ななめならぬ面もちで、
「いずれも、あっぱれなるいたし方、ほめとらする。『瑞陽』の吟味は、もはやこれまで。両人ともどもに褒美をとらせよ。いや、めでたいの」



底本:「久生十蘭全集 4[#「4」はローマ数字、1−13−24]」三一書房
   1970(昭和45)年3月31日第1版第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年12月11日作成
青空文庫作成ファイル:
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