印をほどこす。櫃は惣黒金紋《そうぐろきんもん》の駕籠に乗せられ、その場から京都に発《た》つ。……これで、午餐。
 さて未《ひつじ》の上刻となり、いよいよ古今|未曽有《みぞう》の捕物吟味御前試合。
 将軍は寄垣口の床几にかかり、左右に従行一同がいならぶ。
 青垣口の、白木の台の上には『瑞陽』の死骸が横たえられ、それを左右から取りつめるようにしてふたりの吟味役、藤波と顎十郎が床几にかける。吟味聞役の遠江守は南面、審判役の阿部伊勢守は北面してひかえる。
 籤先番は藤波友衛となり、一礼して台にすすみ、打ちかえし打ちかえし、羽交の裏表、口内、爪先にいたるまでとくと検《あらた》め、しずかに引きさがってくる。つづいて顎十郎の番。藤波の緊張した物ごしにひきかえ、こちらは相も変らずのんびりとしたようす。まるで石ころでもころがすように無造作にとっくり返し、ひっくり返し、気がなさそうに眺めていたが、なんだつまらぬといった顔で、のそのそと床几へもどってくる。
 遠江守は、膝に白扇をついて、
「お鶴あらためがおわりましたらば、ただちに吟味にかかる。心得はすでに老中より申し聞かされたはず。相対《あいたい》異論あらば討論さしつかえない。籤先番により、まず藤波友衛、吟味次第を申して見よ。……さらば相たずねる。丹頂のお鶴、これなる『瑞陽』は自然に死したるものか、あるいは、人手にかかりたるものか。そちの推察はなんとじゃ」
 藤波はキッと顔をあげ、遠江守をにらみつけるようにしながら、
「これなるお鶴は、まさしくひと手にかかりたるものと存じます」
「その次第は?」
「はッ。……ただいま傷口をあらため見まするところ、一見、水蛭の咬み傷の如くには見えまするが、実は水鳥を狩るにもちいる※[#「知」の「口」に代えて「舟」、第4水準2−82−23]《くろろ》の鏑形《かぶらがた》の鏃《やじり》によりできたる傷。そもそも水矢の鏑には、普通には燕尾《えんび》、素槍形《すやりがた》、蟹爪《かにづめ》のいずれかをもちいますのが方式。しかるに、この傷は猪目透《いのめすかし》二字切となっております。水矢に二字切の鏑をもちいまするは、ただひとつ伴流の手突《てつき》水矢にかぎったことでございます。……心の臓にふれて、しかもこれを深く貫《つらぬ》かず、さりげなき掠《かす》り傷の如くに見えますのは、鶴に近づいて手突矢をもって突いたゆえにございます」
「なるほど、事理いかにも明白。手口はそれで相わかったが、しからば、いかなる理由によって、このようなる益なき殺傷をいたしたものか存じよりがあるか」
 藤波は昂然《こうぜん》と叩頭《こうとう》して、
「……『菘翁随筆《しゅうおうずいひつ》』に、『鶴を飼はんとすれば、粗食を以て飼ふべし。餌以前のものより劣れば、鶴は喰《は》まずして死す』と見えております。手前考えますところ、このお飼場うちにて、なにものか、『瑞陽』のお飼料の精米を盗み、稗《ひえ》、籾《もみ》その他のものをもって代えおるものがあるためと存じます。……鶴御成が明日に切迫いたし、上様御覧のみぎり、『瑞陽』が衰弱いたしおるため、おのが悪事を見あらわされんことを恐れ、水蛭の歯形によく似たる、猪目透二字切の手突矢にて突きころし、水蛭の咬み傷によって死したる如くによそおったものに相違ございません」
 いならぶ床几から、どっと嘆賞の声が起る。
 遠江守は、顎十郎にむかい、
「仙波阿古十郎。藤波友衛の推察はただいま聞きおよんだ通り。そちの見こみは、なんとじゃ。異論にてもあらば申して見よ」
 顎十郎は、どこ吹く風と藤波の弁舌を聞き流していたが、この問をうけると、急にへらへらと笑いだし、
「いや、どうも、藤波氏の名論卓説には、手前もうっとりいたしましたが、御高弁にかかわらず、まるきりの見当ちがいかと存じられます」
「はて。その次第は」
 顎十郎は、とぼけた長い顎を、風にふかれたへちま[#「へちま」に傍点]といったぐあいに、ブラブラとぶらつかせながら、
「手前、つらつらと考えますところ、上の御威勢はあまねく、いわんや、このかこい場などにて御寵愛のお鶴の餌を盗むがごとき不心得者はいようとは存じられませぬ。……かりに、そのような者があったとしましたならば、このご聖代、……世にこんなあわれな話はございません。百生《ひゃくしょう》の長たる人間がお鶴の餌の精米をくすねて家に運ばねばならぬというには、よくよく困窮の事情があるものに相違ございません。さだめし、丹頂のお鶴も憐れと思ったことでしょうから、お餌の米が稗になろうと、粟になろうと、喜んでついばんだにちがいない。このへんが霊鳥の霊鳥たるところ。……まして、いわんや、上様お手飼のお鶴。上の御仁慈《ごじんじ》をうけつがぬことはないはず。己《おのれ》のために、尊い人間の一命を失わせ
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