「申して見よ。身にかのうことならば、どのようなことでもきいてとらせる」
「どうか、乗継《のりつぎ》の早駕籠を一挺」
「早駕籠を、どうする」
「申しあげるまでもございません。これから上総へ顎十郎を探しにまいるつもりなのでございます。どうせ、しょんべん組の連中のことですから、ひろい利根すじでマゴマゴしてるばかりのこと。とても今日じゅうには埓があきますまい。……畝川《あぜがわ》の枝々、乗っこみのあたり場には、わたくしに少々心得があります。はたして利根すじにおるものなら、段々に川すじに追いこんで、どんなことがあっても明日の夜あけまでには引っつれて戻るつもりでございます。……くどいようですが、わたくしももう必死。……この一期をはずしちゃア、死にきれません。たとえ草の根をわけても……」
それから、半刻のち、まだ暮れ切らぬ大橋の上を、先がけの声もけたたましく、流星のように東へ飛ぶ早駕籠一挺。
折蘆《おれあし》
いちめんの枯蘆原《かれあしわら》。
水杭の根に薄氷《うすらひ》がからみ、折蘆のあいだで、チチと鋭い千鳥の声がきこえる。
小松川と中川にかこまれた平井《ひらい》の洲。川のむこうはもう葛飾《かつしか》で、ゆるい起伏の上に、四ツ木、立石《たていし》、小菅などの村々が指呼《しこ》される。
ようやく東が白んだばかりで、低い藁屋から寒そうな朝餐《あさげ》の煙が二すじ三すじ。
欠けこんで、すこし淀みになった川岸の枯蘆の中にしゃがんで、釣糸をたれている三十三四の武士くずれ。馬鹿げた長い顎をつンのばして、うっそりと浮木《うき》を眺めている。垢染んだ黒羽二重の袷に冷めし草履。釣をするなんて恰好じゃない。追い立てを喰った七ツさがりの浦島が、いまこの岸にうちあげられたといった体。
もとは、甲府勤番の伝馬役。そいつを半年たらずで見ン事しくじり、与力の叔父の手びきでやっと北町奉行所の下ッぱに喰いついているケチな帳面繰り。
藤波友衛が、必死の覚悟で房州までさがしに行った、これが当の顎十郎、ひとの気も知らないで、こんなところで、薄ぼんやりと鮒を釣っている。
もっとも、顎十郎ひとりじゃない。
そのかたわらに見るから憐《あわ》れをもよおすような、病みやつれた六十ばかりの老爺《おやじ》、下草にべったりと両手をつき、水洟《みずばな》をすすりながら、なにかクドクドとくり言をのべている
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