いておりました。……そんなんじゃねえ。物ごころのついたときから番所の垢を舐め、寝言にも、捕ッた捕ッたという肚《はら》っからの控同心。つれあいも子供も御用の邪魔とばかりに、この年になってまだひとり身。精も根《こん》も吟味の練磨《れんま》に打ちこんで、こうも身を痩せさせているのは、しゃれや冗談でやっているのではありません。多寡が死《おっこ》ちた鶴一羽。ひと目、創をあらためて、いわく因縁《いんねん》故事来歴《こじらいれき》、死んだものか殺されたものか、突き創なら獲物はなに。どういうやつが、どんなぐあいにどういうわけあいでやったものか、その場で即答できねえようでは、お上の御用はつとまらない。自分でいうのもおかしなものですが、江戸一の、日本無双のといわれる看板も嘘になる。それで、御無用と申しあげたのでした」
切って放したように言うと、驕慢な眼つきで甲斐守の顔を見かえした。
甲斐守は、寛容な面もちで、人もなげな藤波の話をききすましていたが、この時、言いようのない温和な笑顔をうかべて、
「上司を蔑《なみ》するごとき言葉の数かず、役儀熱心のゆえと解してそれは忘れてとらすが、……では藤波、はばかりなく大言する以上、このたびのお鶴吟味には、さだめし、確たる推察《みこみ》があるのであろうな」
顔もあげずに、藤波、
「ございます」
甲斐守は思わず乗りだして、
「おッ、推察がついたか。して、『瑞陽』は死したるか、殺されたるか」
「殺されたのでございます」
「して、その次第は?」
「その次第は、鶴御成の前日に『瑞陽』が死んだという、一点にかかっております。前日まですこやかであったものが、さしたるわけもなくこの日に死んだというのが不思議。かならずや、なにかわけあいのあることに相違ございませぬ。……ここのところを突きさぐれば、この事件はわけもなく解けあうはず。下手人はかならずかこい場のうちにあると見こみをつけました。そのわけあいも、わたくしには、うすうすわかっております」
「それは?」
藤波は首をふって、
「ひょっとすると、人間ひとりの命にもかかわる重大な事柄。推察だけで、迂濶にそれを申しあげることはできかねます。委細は、よろず見分の上、とどこおりなく開陳《かいちん》いたします。なにとぞ、それまでは」
というと、急に甲斐守の顔をふりあおぎ、
「それについて、ひとつ、お願いがございます」
前へ
次へ
全16ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング