森川庄兵衛ののぼせかたは申しあげるまでもございませんが、播磨守さまのご心配はまた格別。金助町の庄兵衛の屋敷におつめきりになり、まだかまだかと判官《はんがん》もどきに痩せるような思いをしていられるそうでございます」
 甲斐守は、もっとも、というふうに深くうなずいて、
「そういうことであれば、なかなかもって心配どころの騒ぎではない。わざわざ相吟味をねがいあげ、その当日になって、当人がおりませんでは、いかようにも申訳けが相立つまい。御周旋くだされた阿部さまの面目も丸つぶれとなる。いや、播磨守の憂慮はなみたいていのことではあるまい」
 藤波は痩せた肩を聳やかすようにして、
「ところで、わたくしの憂慮もなみたいていのことではありません。そのことばかりで、さっきから生きた気持もないのでございます」
 というと、ふ、ふ、ふ、と笑って、
「どうせ、無情無慈悲は生れつき。庄兵衛が逆上して卒中を起そうと、播磨守さまが面目玉をふみつぶして隠居なさろうと、そんなことをお気の毒とも、おいたましいとも思うのじゃない。あのひょうげた[#「ひょうげた」に傍点]へちま面が、二度と御府内でぶらつかねえように、今度こそ根こそぎ叩きつけ、息の根をとめてやろうという、かけがえのないこの晴の日に、その相手がゆくえ知れずでは、まったく、……まったく死んでも死に切れない。そ、それが無念で……」
 癇がたかぶってきて、あとがつづけられなくなったと見え、言葉を切って肩で息をついていたが、急にキッと顔をふりあげると、
「捕物吟味の御前試合などとは、まだ話にも例《ためし》にもない。日本はじまって以来これが最初。二度とはない一期《いちご》のおり。……わたくしといたしましても今度ばかりは必死。……さきほど、かこい場の下しらべをおことわり申しあげましたのも、石庵にあうまいと申しましたのも、しょうしょう、覚悟があってのことなのでございます」
 といって、ジリッと膝をすすめ、
「むこうがなにも知らずに、のほほんと寒鮒をせせっているのに、こちらが血眼になって下しらべ下ごしらえじゃあ、いかにも藤波がかわいそうです。……さまざまにお心をつかってお手配をくださったことはありがたいと申しあげたいところですが、実のところはたいへんに不服。……その場では思うような調べもできまいから、今のうちに手をつくせとおっしゃったのを煮えかえるような気持でき
前へ 次へ
全16ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング