」
ようやく、返事があった。
「御無用と存じます」
甲斐守はキッとして、
「無用とは、なにゆえの?」
「それは、明日、見分いたします」
「しかし、今も申した通り……」
「御無用にねがいます」
と、にべもない。甲斐守は、むっとしたようすで、ちょっとの間おし黙っていたが、やがて、しいて顔色をやわらげ、
「……なにか存じよりのあることであろうから、無理にとは申さぬが、せめて、滋賀石庵にだけには逢っておくがよかろう。……どのような有様で水に落ちていたか、流れの方向、水藻のぐあいなども、あらかじめ承知しておったら、なにかにつけて便利であろうと思うが……」
「なにとぞ、それも、御無用にねがいます」
「なにか仔細《しさい》があるのか?……無用、とだけではわからぬ」
藤波は蒼白《あおじろ》んだ、険相《けんそう》な顔をゆっくりとあげると、
「それでは、たとえ、勝をとりましても、勝ったことになりません」
「異《い》なことを申すの。戦場の駈けひきは、あらかじめ十分に謀《はか》るにある。北町奉行所《きた》とても、そのへん、ぬかりなく手をつくしているであろう。いわば、お互いのこと。うしろ暗いことなどいささかもあるまい」
「それが、今度は、そういうことにはなりません」
「なんと申す?」
「実は、仙波阿古十郎が、四五日前から行きがた知れずになっております」
「なに!……仙波が……」
「四五日前、大利根《おおとね》すじへ寒鮒《かんぶな》を釣りに行くといって、フラリと出かけたまま、今日にいたるまで消息がございません」
「おッ、それは!」
「正午《ひる》ごろから、北町奉行所ではひっくりかえるような大騒ぎ。さっそく御蔵河岸《おくらがし》から早船を五艘、突っこみにして利根すじへのぼらせましたが、ひとくちに利根と申しても広うございます。安房におりますものやら、上総におりますやら、とんと見当がつきません」
「これはしたり」
「何しろ、有名《なうて》の風来坊、気がむけば、風呂屋からその足で長崎まででも行きかねないやつ。はたして神妙に釣などしているのかどうか、その辺のことさえ、さだかじゃございません。……運よく、北浦《きたうら》か佐原《さわら》あたりでとっつかまえたといたしましても、こちらへ帰りつきますのは、早く行って明日の夜あけ。お仮屋前でお出迎いするのが、やっとというところ」
「いかにもの」
「叔父の
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