だいぶ迫っては行きましたが、駕籠が一ツ橋門内に入りかかるときには、ちょうど四番原の入り口へかかったばかり……」
 ふ、ふ、と笑って、
「失礼なことを申すようだが、さっき伺っていると、二日ばかりなにも喰べず水ばかり飲んでいらしたということだが、その足では、まずまずどんなことがあっても駕籠を追いぬくの、先まわりして待伏せるなどということは出来ない。……いかがです」
「………」
「……ねえ、青地さん、あなたの家のあがり口へ氷の箱をおいて行ったのは、だれなんです。たとえ相手は氷でも、献上物へ手をかければ打首、獄門の大罪。……おまけに、時疫で大熱をだして苦しんでいる子息の命にかえてまで庇《かば》おうとなさる以上、あなたが、そのものの名を知らぬというはずはない」
 青地は頭をたれ、長いあいだ愁然《しゅうぜん》としていたが、そろそろと顔をあげ、
「恐れ入ったご活眼。……なにもかもつつまず申しあげます。……じつは、手前が盗んだのではありません」
 あらためて、畳に手をついて、
「正視《まさめ》に、そのものの姿は見ませぬが、あれを手前の家へ投げこんだものの心あたりはございます。……恥を申さねばなりません
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