駈けるのは、なかなか大変でしたろう」
「お恥ずかしいことですが、息切れがいたして、今にも眼がくらむかと思うばかり。……どうして追いつきましたやら、不思議なくらいで……」
「それも、子がかわいさの一心。恩愛《おんない》の情というのは、えらい働きをするものですな。……盗りもせぬものを盗ったなどと言われるのも、ふしぎのひとつで……」
 青地は、はッと顔をあげ、
「なんと言われる」
 顎十郎は笑って、
「あなたも、じょうずに嘘がつけない方だ、そんな頼りないことで、よく藤波がだませましたな」
「これはしたり!」
「などと驚いたような顔が、また嘘」
 青地は荒らげた声で、
「嘘とは、そもそもなにをもって。……なんと言われようと手前が盗んだに相違ない」
 顎十郎は手でおさえ、
「まあまあ、そんな大きな声をなすってもしょうがない。……それほどに言われるなら申しますが、いま、榊原から釣台が出たとおっしゃったようだが、榊原式部は前の月の中旬《なかごろ》、九段の中坂へお所がえになって、あの屋敷はいま空家になっていることをご存じですか」
「おッ、それは!」
「藤波はうっかり見のがしたろうが、あたしはそんなこと
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