顎十郎捕物帳
氷献上
久生十蘭
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)賜氷《しひょう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)六月|朔日《ついたち》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)久生十蘭全集 4[#「4」はローマ数字4、1−13−24]
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賜氷《しひょう》の節《せつ》
「これ、押すな、押すな。……押すな、と申すに」
「どうか、お氷を……」
「あなただけが貰いたいのじゃない、みな、こうして待っている」
「……ほんの、ひとかけでも……」
「いま、順にくださる、お待ちなさい……」
「じつは……」
「おい、お武家さん、おれたちは、こうして炎天に照らされながら二刻《ふたとき》も前から待っているんです。……つい、いま来て、先にせしめようというなあ、すこしばかり虫がいいでしょう」
「……まことに、申訳けないが、じつは……」
本郷、向ガ岡。
加賀さまの赤門《あかもん》で名代の前田加賀守《まえだかがのかみ》の御守殿《ごしゅでん》屋敷。
本郷から下谷の根津わきまで跨《またが》って、屋敷の地内が十六万坪。
竹逕《ちくけい》の涼雨《りょうう》、怪巌《かいがん》の紅楓《こうふう》、蟠松《ばんしょう》の晴雪《せいせつ》[#ルビの「せいせつ」は底本では「せいうん」]……育徳園《いくとくえん》八景といって、泉石林木《せんせきりんぼく》の布置《ふち》、幽邃《ゆうすい》をきわめる名園がある。
北どなり、水戸さまの中屋敷にむいた弥生町《やよいちょう》がわの通用門から、てんでに丼《どんぶり》や土瓶を持った老若男女《ろうにゃくなんにょ》があふれだし、四列ならびになってずっと根津権現《ねづごんげん》のほうまで続いている。
加賀さまの雪振舞《ゆきぶるまい》。――加賀屋敷、冷てえ土だと泥土《どろ》を舐《な》め、と川柳点《せんりゅうてん》にもあるくらいで、盛夏の候、江戸の行事のひとつ。
嘉永版《かえいばん》の『東都遊覧年中行事《とうとゆうらんねんちゅうぎょうじ》』にも、『六月|朔日《ついたち》、賜氷《しひょう》の節《せつ》御祝儀《ごしゅうぎ》、加州侯より氷献上、お余《あま》りを町家《ちょうか》に下さる』と見えている。
賜氷の節、また氷室《ひむろ》の御祝儀ともいって、三月三日の桃の節句、五月五日の菖蒲《しょうぶ》の節句、九月九日の菊の節句についで古い行事で、仁徳天皇の御代に山《やま》ノ辺《べの》福住《ふくずみ》の氷室の氷を朝廷に奉《たてまつ》って以来、六月朔日を氷室の節といい、西の丸では、富士氷室の御祝という儀式があり、大奥、御台所は伺候の大小名に祝いの氷餅《こおりもち》をくださる。
町家《まちや》では、前の年の寒のうちに寒水でつくった餅を喰べてこの日を祝い、江戸富士詣りといって、駒込《こまごめ》の真光寺《しんこうじ》の地内に勧請《かんじょう》した富士権現に詣り、麦藁《むぎわら》でつくった唐団扇《とううちわ》や氷餅、氷豆腐などを土産《みやげ》にして帰る。
六月朔日の氷室のお祝に、加州侯からお雪をさしあげることは、加賀さまの氷献上といって、これも古い行事のひとつ。
延喜式《えんぎしき》の古式にのっとって、前の年の寒のうちに屋敷の空地の清浄な地に、深さ二丈ばかりの大穴を掘り、そこに新筵《あらむしろ》を敷いて雪をつめた桐の大箱をおさめる。
そのまわりを数万坪の雪でかこい、雪の上に筵を厚くかけて高く土盛りをする。こうして春を過し、六月朔日、土用のさなかに穴をひらき、まわりの雪をのけて桐箱入りの氷を駕籠にのせ、一ツ橋御門から入ってすぐ御車寄《おくるまよせ》まで行く。
車寄についたお雪の桐箱は、御側用人《おそばようにん》、お坊主附添いでまず老中《ろうじゅう》の用部屋まで運び入れ、用部屋から時計《とけい》の間《ま》坊主《ぼうず》、側用取次と順々に送られ、お待ちかねの将軍が、これを器《うつわ》に盛って、今年の雪は、ことのほか冷たいの、などと御賞美なさる。
さて、加賀さまのお氷が西の丸へあがったと聞くと、本郷、下谷一帯の町家のものはもちろん、はるばる下町からも、遠近貴賤の別なく容器を持っておあまりの氷をもらいに集ってくる。
暑いさなか、ようやくお氷は頂戴したが、日本橋まで駕籠を飛ばすうちに丼の雪が溶けて水になる。ずいぶん高価《たか》い水だが、生温《なまぬる》になった水でも、お氷が溶けた水だといえば、ありがたい気がする。
江戸は、ことに水の悪いところで、町人は夏のあいだに雪や氷を口にするなどということは思いもおよばなかったので、加賀さまのお雪はたいへんに珍重された。
……そういうぐあいに、丼や蓋物《ふ
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