それは、あんまり、むごいおあつかい……」
「腹を立てられても困る。……なにしろ、相手は氷のことだでな、溶けてしまったものは、いかな氷見役でも、どう扱いようもない。……さあさあ、もうお引きとりなさい」
 とりのぼせて、手をのばして氷見役の腕をつかみ、
「……では、お土でも……」
 氷見役人は癇を立てて、
「なにをする、手を離せッ」
「お願い……お願い……」
「これ、手を離せと申すに!」
 手づよく押しのけたはずみに、丼がケシ飛んで、地べたの小石にあたって二つに割れる。
「これは、ご無体《むたい》!」
「無体とは、こちらの申すことだ、マゴマゴしないで、早く帰れ」
 浪人者は地面にかがんで、もそもそと丼のかけらを拾いあつめていたが、なにを思ったか、スックリと立ちあがると、手に持った丼のかけらを力まかせに地面にたたきつけ、
「……よし、どうでもくれぬというなら、取るようにして取って見せる。……まだ、水道橋へはかかるまい。……これから追いかけて……」
 眼に血をそそぎ、すさまじい形相《ぎょうそう》で壱岐殿坂《いきどのざか》のほうを見こむと、草履《ぞうり》をぬいで跣足《はだし》になり、髪ふりみだして阿修羅《あしゅら》のように走りだした。

   桃葉湯《もものはゆ》

 本郷三丁目の『有馬《ありま》の湯』。
 六月三日が、土用《どよう》の丑《うし》の日。この日、桃の葉でたてた風呂へ入ると、暑気をはらい、汗疹《あせも》をとめるといって、江戸じゅうの銭湯で桃葉湯《もものはゆ》をたてる。
 れいによって、番所をなまけ、手拭いを肩にひっかけて汗をながしに行く。
 ちょうど七ツさがり、暑いさかりで、浴客《きゃく》はほんの二三人。
 小桶を枕にして、流し場に長くなっているのは、いつも間のびのした歯ぬけ謡をうなる裏の隠居。顔は見えないが、湯壺《ゆつぼ》のなかで粋《いき》な声で源太節《げんたぶし》を唄っているのがひとり。
 顎十郎が、小杓子でかかり湯をつかっていると、唄がやんで、柘榴口《ざくろぐち》からまっ赤になって這いだして来たのは、加賀さまのお陸尺で、顔なじみの寅吉という剽軽《ひょうきん》なやつ。
 顎十郎の顔を見ると、ひゃッ、と頓狂な声をあげておいて、
「いよう、これは仙波先生、きょうは、もうお役あがりですか」
 顎十郎はふ、ふ、と笑って、
「この暑気では、役所づめもおかげがねえでな、休みにした」
 寅吉は、並んでかかり湯をつかいながら、
「先生は、相変らず、のんびりしていらっしゃる。……御用がなかったら、あっしどもの部屋へ遊びにおいでなさいませんか。この節は、ちっとも顔をお見せにならねえので、いつも、みなとお噂をしておりやす」
「いいな、ひと風呂あびたら、いっしょに行って、久し振りにみなと馬鹿ッぱなしでもするか」
 寅吉はよろこんで、
「じゃ、背中でもお流ししましょう」
 と言って、膝をうち、
「……それはそうと、あけて前の朔日、ひょんな騒ぎがあったことをご存じですか」
「いや、聞いていない」
「じゃ、お聞かせしましょうか」
「聞かせてくれるのはありがたいが、暑苦しい話なら願いさげだ」
「暑苦しいどころか、とほうもなく涼しい話なんで……。なんと言っても、お氷の件なんだから」
「お氷が、どうした」
「世の中には、ずいぶん変ったこともあるもんですが、こんどなんかも、その、なかんずく。……お屋敷からあがった献上のお氷を桐箱ぐるみそっくり持って行ったやつがいるんです」
「ほほう、それは、いかにも涼しい話だの」
 寅吉は乗りだして、
「なんと申しやしてもね、古くからの重い慣例。……あまり物欲しそうにはしねえ公方《くぼう》さまが、これだけはお待ちかねで、前の月はなから、もう、あと何日で加賀の氷がくると待ちかねておいでになるというその氷。……そいつを横あいから掻《か》ッ攫《さら》ったやつがある。……大袈裟にいうわけじゃねえが、これは天下の一大事。……殿さまの恐縮もさることながら、駕籠について行った用人、氷見役一同、ことによったら腹切りもの。……相手が氷でも、これじゃ、すこし、涼しすぎましょう」
「この節は、いろいろと変った盗っとが出る。……それで、どんなやつの仕業だったんだろう」
 寅吉は、顎十郎の肩につかまって背中を流しながら、
「……話はあとさきになりますが、じつは、お雪献上の駕籠をかついで行ったのは、あっしと為のふたりなんでね、ですから……」
 顎十郎は、肩越しに寅のほうへ振りかえって、
「じゃ、お前が、お氷がさらわれる現場を見たわけだな」
 寅吉は、照れくさそうに頭へ手をやって、
「見たか、とたずねられりゃ、見たと返事をするよりしょうがねえわけなんですが、それが、どうもなんとも、ざまのねえ話なんで……」
「どうした?」
「いま、くわしくお話します……。
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