この顎十郎、どういうものか、中間、陸尺、馬丁なぞという手やいに、たいへん人気がある。あちらの部屋からも、こちらの部屋からも、どうかわっしどものほうへも、と迎いに来る。
 ※[#「ころもへん+施のつくり」、第3水準1−91−72]《ふき》のすりきれた古袷と剥げッちょろ塗鞘の両刀だけの身上《しんしょう》。
 本郷の金助町に、北町奉行所の与力筆頭をつとめる森川庄兵衛というれっきとした叔父がいて、そこへさえ帰れば、小遣いに困るようなこともないのだが、この十月、甲府の勤番をやめてヒョロリと江戸へ舞いもどって来た日いらい、ほうぼうの部屋をころがり歩いて、叔父の家へは消息《しょうそく》さえしない。
 叔父庄兵衛の組下で神田の御用聞、ひょろりの松五郎だけが顎十郎が江戸に帰って来ていることを知っているが、金助町へ知らせないようにと堅く口どめしてある。
 そういうわけだから、金ッ気などのあろうわけがない、まるっきり文無し。中間、陸尺のほうでもそんなことは先刻ご承知。
 無理にじぶんの部屋へ引っぱってカモにしようの、振るまいにつこうのというのではない。気ままに寝ッころがらしておいて、寄ってたかって世話を焼
前へ 次へ
全48ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング