凧の燃えのこりは、のちほどお目にかけますが、ところでね、藤波さん、いったいぜんたい、どの方面から行灯凧をあげればちょうどこの辺へのびて来るでしょう。……いま申したように、この二三日来、ずっと下総東風《しもおさこち》が吹いているんです」
「うむ」
「うむ、というのは、大体お察しになれたというご返事だと思いますが、ここから川をへだてて金座の長屋は、ちょうど真西にあたる」
「…………」
「神田橋の勘定所から、金座へ御用金差しまわしの触役《ふれやく》が来たのはその晩の五ツ(八時)ごろ。……この厩に小火が起きたのは、それから一刻後の四ツごろ。……その行灯凧が、きっと金座であげたのだろうとは言いませんが、稲荷河岸の石船に合図をしようと思うなら、なにも、次の夜あけまで待つ必要はない。この通り、行灯凧というのもあるんだから、やろうと思えば、その夜のうちに合図もできるだろうということなんです。……なるほど、白地に赤二本引きのけん凧も目立つだろうが、なんと言っても、夜あげる行灯凧にはかなわない。……それに、おなじ合図をするなら、すこしでも早くやるほうが万事について都合がいい。それが、人情というものでしょうからね。……それで、あなたは、芳太郎が、行灯凧もあげたということまで突きとめましたか」
藤波は苦りきって、
「いや、そこまでは、まだ調べがとどいておらん。……行灯凧のためにここに小火があったということは、まだ届けいでがなかったでな」
「そのへんが、お役所の不自由なところ。……手前のほうは、松平の中間部屋に寝ころがっていて、チラとこの話を小耳にはさんだ。……いわば、怪我の功名だったんですが、こういうところから推しますと、芳太郎はどうも罪にはならんようですな、……言うまでもなく、行灯凧は、『陣中|狼火《のろし》の法』のひとつで、凧糸の釣《つり》にむずかしい呼吸のあるもの、また、これをあげるにも相当の技《わざ》があって、八歳や十歳の子供などにあつかえるようなしろものじゃない。……なにしろ、行灯仕立てにして、その中に火のついた蝋燭が一本立っている……火を消さぬように、行灯を焼かぬように、これを高くあげるにはなかなかコツがいる。あげるまでのあいだに、十中の九までは行灯を燃やしてしまうのが普通です」
藤波は、腕を組んで、眼を伏せて考え沈んでいたが、フイと顔をあげると、
「いちおう理屈は通るようだが、それだと言って、立馬に罪がないとは言いきれない。長崎ふうのけん凧をつくって子供にあたえるくらいなら、そうとう凧に心得のあるやつ。行灯凧だってあげるだろう。……夜のうちに、自分で行灯凧をあげ、朝になって、御用金が金座を出る間ぎわに、間もなくこれから出るぞという合図に、こんどは、せがれに白地に赤二本引きの凧をあげさせた……」
顎十郎は、首をふって、
「どうもいけませんな。凧をつくる男なら、金座にもうひとり名人がいる。……それは、やはりお金蔵方のひとりで、石井宇蔵《いしいうぞう》という男です。そいつが金座の子供の烏凧をぜんぶ作ってやっている。……これは余談ですが、手前に言わせれば、芳太郎の凧は合図でもなんでもありゃしない、いわんや、結び文などはもってのほか。……あなたは、その凧に結び文をつける約束ができていて、石船のほうでそれを雁木にひっかけて持って行ったのだと言われる。……ところで、そんなことは、まるっきりなかったんです」
藤波は含み笑いをして、
「ほほう、まるで、見ていたようなことを言う。……そんな大きな口をきくからには、なにか、たしかな証拠でもあるのでしょうな」
「あればこそ、こんなふうにも申しているんです。……その証拠をお目にかけますから、まあ、こちらへいらっしゃい」
顎十郎は先に立って厩を離れ、矢場の※[#「土へん+朶」、第3水準1−15−42]《あずち》のうしろをまわって塀ぎわのひろい空地に出ると、急に足をとめ、蟠屈《ばんくつ》たる大きな老松《おいまつ》の梢《こずえ》をさしながら藤波のほうへ振りかえり、
「芳太郎の凧が、合図でもなんでもなかったという証拠は、まず、あの通り、……芳太郎の凧は、雁木にからめて奪《と》られたんでもなんでもない。あれ、あの枝にひっからまってブラさがっています」
指さされたほうを見あげると、いかにも、まだ紙の色もまあたらしい白地に赤二引の丹後縞のけん凧がブラさがって、ブラブラと風に揺れている。
「いかがです。金座の塀の内からは、この松は見えない。……芳太郎のほうは、れいの通り、とんび組がきて引っきって行ったのだろうと思ったのだろうが、じつは、こんな始末だったんです。……あの凧に結び文があったかないか調べるまでもない。……かりに、そうだとすると、芳太郎の凧がこんなところにひっかかっている以上、むこうへ合図が渡らないたはず[#
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