「渡らないたはず」はママ]なのに、ご承知のように、石船はチャンと動き出している。……この理から推して、芳太郎の凧は、合図でもなんでもなかったのだと言ってるんです。……要するに、合図があったのは芳太郎の凧あげ以前のことだったと思うほかはない。……どうです、ご納得がゆきましたか」
 と、小馬鹿にしたように、顎をふって、
「天の理というものは微妙なもので、この二三んち来、風がいつも同じ方向から吹いていたなんてことは、これは、まったく天のなせる業《わざ》。……金座からあげた芳太郎の凧がここに落ちるなら、むこうの厩に落ちた行灯凧も、従って、やはり金座から出たと思えないことはない。これは、あながち、こじつけとも言われますまい」
 急に真顔になって、
「じつは、あの事件があって以来、手前は、一ツ橋そとの二番原へ行って、凧をあげながらいろいろなことを考えておった。……凧あげも存外《ぞんがい》おもしろいものですが、そうしているうちに、チョイとした妙なことに気がついたんです。……さっきも言ったように、これで功名しようの、あなたをへこまそうのというんじゃない、ほんのお道楽。……これから、妙の妙たるゆえんをお目にかけますから、お嫌でなかったら、金座のへんまでお伴したいものですが」
 藤波は、キリッと歯を噛んで眼をそらしていたが、忌々しそうに頷くと、
「よろしい、お伴しよう」
 と、ホロ苦く呟いた。

   烏《からす》と鳶《とんび》

 松平越前の脇門を出ると、顎十郎は、手にからす凧と糸巻を持って、うっそりと常盤橋を渡りかける。渡りきったところが、ちょうど金座の横手。
 塀越しに金座の屋の棟を見ると、れいの通り、地内の空地からあげる烏凧が十二、三も空に浮かびあがっている。
 顎十郎は、薄馬鹿のように空のほうを顎でしゃくりながら、
「……どうです、相変らずやっていますな。……手前は知らなかったが、金座のからす組、小田原町のとんび組といや、下町では有名なもんだそうで、この凧合戦を見にわざわざ山の手からやって来るひともあるくらいだそうです」
 藤波は、気のない調子で、
「ふむ、ふむ」
 顎十郎のほうは、ひどく上機嫌で、ああんと口をあけて、からす凧を眼で追いながら、
「……もう、間もなく、むこうの小田原町のほうから鳶凧がやって来て、ここでひと合戦はじまります。このへんで、ゆっくり見物しますかな。……それにしても、ただぼんやり見ているのも無聊《ぶりょう》。……さいわい手前もからす凧を持って来ましたから、この塀そとで凧あげをしましょう。……どうです、藤波さん、あなたもひとつ。……これが風をはらんで空に舞いあがって行くのを見ていると、なんとなく気宇が濶《ひら》けて愉快なものです」
 藤波は焦《いら》立って、
「あげるなら、あげるがよろしいが、さっきの話のほうはどうなるんです。……なにか、奇妙なものを見せるということだったが……」
 顎十郎はニヤリと笑って、
「ですから、これよりおもむろにご高覧《こうらん》に供《きょう》します。……せいてはことを仕損ずる。……まあまあ、手前の凧あげでも見ておいでなさい。……仙波阿古十郎、これから凧をあげます。神田小川町は凧八のからす凧、これよりとんびお迎いのていとござい」
 テンテレツク、と口三味線《くちじゃみせん》で囃しながら、器用な手つきで凧糸をさばき、はずみをつけてヒョイと風に乗せる。
 顎十郎のからす凧は、いったん地面を這って、あぶなく塀ぎわの小溝へ落ちかけたが、そこで、あふッとひと煽りあおりつけられると、ツイと横ざまにのしあがってグングンと空へ。……糸巻からくりだされた糸の先にあやつられ、黒い翼に陽の光をうけて鈍銀色《にぶぎんいろ》に光りながら、まるで、のびあがるようにどこまでもあがって行く。
 のばせるだけ凧糸をくりだすと、顎十郎は、藤波のほうへ振りかえって、
「どうです、なかなかあざやかなもんでしょう。……陽の光をうけてゆるゆると舞っているところなんざあ、まるで生物《いきもの》のよう。こうして糸を持っていると、ブルブルと震えが伝わって来て高みの心が手に感じられるようで、なんともいい心持なものです」
 顎十郎は、自分のからす凧と金座の地内からあがっているからす凧を互いちがいに指さしながら、
「ときに、藤波さん、手前のからす凧はこの通りあんな高みまであがって行きますが、金座のからす凧のほうは、どういうものか、みなあんなふうに、妙に屋棟《やのむね》ちかくを這いまわっている……十が十、ひとつ残らずそうなんだから、チト変だとは思いませんか」
 藤波は気もなく、
「それは、凧の出来にもよれば、大きさにもよる。また、釣のぐあいによって、いろいろあがり方がちがうだろう、かくべつ不思議なんというこっちゃない」
「おや、そうですか。それな
前へ 次へ
全12ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング