まりを、ヒョイヒョイと飛びこえながらこっちへやって来るのは、江戸一といわれる捕物の名人、南町奉行所の控同心、藤波友衛。
れいによって、癇走った顔をトゲトゲと尖らせ、切れの長いひと皮|瞼《まぶた》のあいだから白眼がちの眼を光らせながら近づいて来ると、冷酷そうな、うすい唇をへの字にひきむすんで、ものも言わずにぬうと突っ立つ。
顎十郎は馬鹿ていねいに腰をかがめ、
「これは藤波先生、遠路のところを、ようこそ。……さすが、江戸一の捕物の名人といわれるだけあって、職務にはご熱心、はばかりながら、感佩《かんぱい》いたしました」
藤波は膠《にべ》もなく、
「それで、ご用といわれるのは?」
「わざわざお呼立てして恐縮でしたが、チトお目にかけたいものがあって……」
「だから、なんだ、と訊いている」
「御用繁多のあなたをこんなところへお呼立てする以上、申すまでもなく、このたびの金座の件……」
藤波は、ふん、と陰気に笑って、
「また、出しゃばりか。……おおかた、そんなことだろうと思った」
顎十郎は、へへ、と顎を撫でて、
「いや、出しゃばりと言われると恐縮いたしますが、聞くところでは、あなたは金座のお金蔵方、立馬左内のせがれの芳太郎という子供をお手あてになったそうで……」
「それが、どうした」
「いちいちお咎《とが》めでは、お話もできません、まあ、平に平に。……くどいことはお嫌いのようですから、ざっくばらんに申しますが、どうも芳太郎という子供がかわいそうで、なんとかして、無実の証《あかし》を立ててやりたい、……それで、出しゃばりの譏《そしり》もかえりみず、出しゃばりをしているわけなんで……。ご承知の通り、手前は当今、ほうぼうの役割部屋で養われている名もない権八、これで功名しようの、あなたをやっつけようの、そんな娑婆《しゃば》ッけは毛頭《もうとう》ない。……ただもう、その無実の人間を助けるのが道楽とでも申しますか……」
藤波は、キュッと眼尻をつりあげて、
「だいぶ、気障《きざ》なセリフがまじるようだが、では、あなたは芳太郎が無実だという、たしかな証拠をにぎっているとでも言うのか」
「証拠になるかならないか、それは、これからご相談しようと思うのですが……」
おほん、と咳ばらいをして、
「このたびのあなたのお手あての理由は、芳太郎という子供が、時ならぬ朝の六ツごろ、白地に赤二本引きの丹後縞のけん凧をあげた。……これが金座から御用金がでる半刻ほど前。……あなたのお見こみでは、立馬左内が、きょう間もなく御用金が金座を出るのを知って、稲荷河岸あたりで待っている一味の石船にそれを合図するため、どこからでも目立つ白地に赤びきの長崎凧を、せがれの芳太郎にあげさせた……。それにちがいはありませんか」
藤波は冷然たる面もちで、
「いかにもその通り、それが?」
「まあ、平に平に……。それが、その凧をどこかの凧が切って持って行った。……それというのは、たぶん、その凧にくわしい手はずを書いた結び文でもしてあったのだろう……」
「それが、どうした」
「つかぬことを伺うようですが、では、その凧は、たしかに石船の一味の手へ入ったというお見こみなんでしょうな」
「なにをくだらん、……手に入ったればこそ、ああいうことが出来たのだ」
顎十郎はうなずいて、
「なるほど、理詰ですな」
と言うと、キョロリと藤波の顔を眺め、
「ときに、藤波さん、もう十一月だというのに、この二三日、どうしてこうポカつくか、ご存じですか?……まるで、春の気候ですな」
藤波は、いよいよ癇を立て、
「手前は、あなたと時候の挨拶をするために、こんなところまで出かけて来たのじゃねえ。そんなくだらないことなら、手前はもうこのへんで……」
顎十郎は、大袈裟に引きとめる科《しぐさ》で、
「まあまあ、お待ちなさい。……相変らず、あなたも癇性だ。……お返事がなければ、手前が釈義いたしましょう。……なぜ、こうポカつくかといえば、この二三日、ずっと南よりの東風《こち》が吹いているからなんです。嘘だと思うなら、浅草の測量所へ行って天文方のお日記を見ていらっしゃい。東東微南と書いてあります。というのは、じつは手前が調べて来たのだから、これに間違いはない」
「風は、東からも吹きゃ、西からも吹く。……それが不思議だとでもいわれるのか」
顎十郎は手で押さえて、
「不思議はないが、曰《いわく》がある。……ねえ、藤波さん、……一昨日の夜の四ツ(十時)頃、ごらんの通り、この厩が燃上った。……大体において、火の気のないところなんで、どうして、こんなところから火が出たかというと、それは、行灯凧が塀越しにむこうからのびてきて、この屋根へ落っこちたからなんで。……それを見ていた馬丁が五人もいるんだから、これには間違いはないんです。……行灯
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