口の五ツ半ごろここへ押しかけてまいりました。……知らない仲ではござんせんから、上り口で声をかけ、この座敷へ入って見ますと、千賀春さんは、長火鉢にもたれてぐったりと首を垂れております。むかしから後ひきで、飲み出すと、つぶれるまで飲むほうだから、あちきは、またいつもの伝だと思いまして、……どう、おしだえ、千賀春さん、見りゃア、まだ四本《しほん》、こんなこってつぶれるとはむかしのようでもないじゃないか。まア、もうひとつあがれ、なんて申しながら、そこの銚子をとって酒をつぎ、そいつを、さアと突きつけたはずみに、わちきの手がむこうの肱《ひじ》にふれたと思うと、千賀春さんはがっくりと火鉢の中へのめってしまいました……」
「なるほど……」
「……おどろいて、火鉢のむこうへ廻りこんで行って抱きおこそうと思って、なにげなしに手にさわりますと氷のように冷たい……顔も首すじも酒に酔ったように桜色をしておりますのに、それでいて、まるっきり息をしていないんでござんす。あッと、千賀春さんの身体《からだ》を突きはなしましたが、柳橋《やなぎばし》では誰ひとり知らないものもござんせん、わちきと千賀春さんのいきさつ。……こ
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