、そんな挨拶《あいさつ》はあるめえ。……雨が降りゃア、下駄屋は、いいお天気という。……おれらは忙しくなくっちゃ結構とは言わねえ」
「えへへ、ごもっとも。……どうも、この節《せつ》のようじゃ、ちと、骨ばなれがいたしそうで……」
「これ見や、捕物同心が、やしきで菜根譚《さいこんたん》を読んでいる。……暇だの」
 引きむすぶと、隠れてしまいそうな薄い唇を歪めて、陰気に、ふ、ふ、ふと笑うと、書見台を押しやり、手を鳴らして酒を命じ、
「やしきでお前と飲むのも、ずいぶんと久しい。……まア、今日はゆっくりしてゆけ」
 一年中機嫌のいい日はないという藤波、どういうものか今日はたいへんな上機嫌。せんぶりの千太は呆気《あっけ》にとられて、気味悪そうにもじもじと揉手《もみで》をしながら、
「えへへ、こりゃ、どうも……」
 といって、なにを思い出したか、膝をうって、
「ときに、旦那。……清元千賀春《きよもとちがはる》が死にましたね」
「ほほう、そりゃア、いつのこった」
「わかったのは、つい、二刻《ふたとき》ほど前のことでございます。……ちょうど通りすがりに、露路口《ろじぐち》で騒いでいますから、あっしも、ちょ
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