口の五ツ半ごろここへ押しかけてまいりました。……知らない仲ではござんせんから、上り口で声をかけ、この座敷へ入って見ますと、千賀春さんは、長火鉢にもたれてぐったりと首を垂れております。むかしから後ひきで、飲み出すと、つぶれるまで飲むほうだから、あちきは、またいつもの伝だと思いまして、……どう、おしだえ、千賀春さん、見りゃア、まだ四本《しほん》、こんなこってつぶれるとはむかしのようでもないじゃないか。まア、もうひとつあがれ、なんて申しながら、そこの銚子をとって酒をつぎ、そいつを、さアと突きつけたはずみに、わちきの手がむこうの肱《ひじ》にふれたと思うと、千賀春さんはがっくりと火鉢の中へのめってしまいました……」
「なるほど……」
「……おどろいて、火鉢のむこうへ廻りこんで行って抱きおこそうと思って、なにげなしに手にさわりますと氷のように冷たい……顔も首すじも酒に酔ったように桜色をしておりますのに、それでいて、まるっきり息をしていないんでござんす。あッと、千賀春さんの身体《からだ》を突きはなしましたが、柳橋《やなぎばし》では誰ひとり知らないものもござんせん、わちきと千賀春さんのいきさつ。……こんなところを見られたら、どう言いはってもあちきが殺したと思われましょう。……そう思うと、急に恐ろしくなりまして、死んだ気になって千賀春さんを抱きおこし、さっきの通りに火鉢にもたれさせ、宙にでも浮くような気持でここから走り出したんでござんすが、家へ帰って見ますと、比翼の紋を打った平打の銀簪がござんせん。……そう言えば、千賀春さんを抱きおこすひょうしに、キラリと火鉢の中へ落ちこんだような気もいたします、それで……」
 顎十郎は手を拍って、
「いや、そのへんで結構……あとはこちらに判っている」
 藤波は壁ぎわにすわって、冷然たる顔つきで小竜の話を聞きながしていたが、小鼻をふるわせてふんとせせら笑い、
「判ってるとは、いったいどう判っている」
「これはしたり……これでもまだおわかりになりませんか。……これは少々意外ですな、小竜が開陳《かいちん》したのはなるほどただの話だが、たったひとつ、動きのとれない証拠がある」
「ほほう、それはいったい、どういうことです」
「手が冷たいのに、顔も首筋も桜色をしていたというところ……」
「ふん、だから、それが?」
「……あなたは、さきほど濡紙で口をふさいだと言
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