顎十郎捕物帳
ねずみ
久生十蘭
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)藤波友衛《ふじなみともえ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)深|笑靨《えくぼ》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「譽」の「言」に代えて「石」、第3水準1−89−15]石《よせき》
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藤波友衛《ふじなみともえ》
坊主畳を敷いた長二十畳で、部屋のまんなかに大きな囲炉裏が切ってある。磨出《とぎだ》しの檜の羽目板に、朱房のついた十手や捕繩がズラリとかかって、なかなか物々しい。
数寄屋橋内《すきやばしうち》、南番所御用部屋。まだ朝が早いので、下ッ引の数もほんの三四人、炉端にとぐろを巻いて、無駄ッ話をしているところへ、不機嫌な突袖《つきそで》でズイと入って来た卅二三の男。土間で雪駄《せった》をぬぐと、畳ざわりも荒々しく上って来て、焼腹《やけばら》に羽織の裾をまくって、炉端へ坐りこむ。岡ッ引があわてて坐り直してごくろうさまでございます、と挨拶したが、そっくり返って返事もしない。
どこもここも削《そ》いだような鋭い顔で、横から覗くと鼻が嘴のように尖って見える。結ぶと隠れてしまうような薄い唇をへの字にまげてムッと坐っている。
藤波友衛。南番所の並同心で、江戸で一二といわれる捕物の名人。南町奉行所を一人で背負って立っているといってもいいほどのきれものだが、驕慢で気むずかしくて、ちょっと手におえない男である。藤波の不機嫌と言ったら有名なもので、番所では、ひとりとしてピリつかぬものはない。
一年中、概して機嫌のいい時は少いのだが、今日はとりわけ、どうも、いけないらしい。切長な細い眼の中でチラチラと白眼を光らせ、頬のあたりを凄味にひきつらしている。
岡ッ引どもは霜に逢った菜ッぱのようにかじかんでしまって、膝小僧をなでたり、上前《うわまえ》をひっぱったり、ひとりとして顔をあげるものもない。
藤波は上眼づかいで、ひとりひとりジロジロ睨《ね》めまわしていたが、とつぜん癇声《かんごえ》をあげて、
「だいぶ暇らしいの、結構だ。……どうした、そんなにかじかんでいねえで、なかんずくの大ものだという、いまのつづきをしたらどうだ。……飛んだ深|笑靨《えくぼ》で、それがふるいつきてえほどいいのだと。面白れえじゃねえか、それから、どうした」
貧相な撥鬢奴《ばちびんやっこ》は、すっかり恐れてしまって、首に手をやって、
「えへへ、どうも、とんだことを……」
藤波はいよいよ蒼ずんで、
「なにも尻込みをすることはなかろう。……それとも、俺がいちゃ気色《きしょく》が悪くて話も出来ねえか」
「と、とんでもない」
と、息もたえだえ。
藤波は、唇の端だけで、もの凄くニヤリと笑って、
「そうか。飛んでもねえということを知っていたのか。なら、まだ人間並みだ。俺もいい下廻りを持ってしあわせだ、ふふん」
中で年配なのが、おそるおそる顔をあげて、
「なにか、あッしども、しくじりでも……」
「笑わせるな。しくじり[#「しくじり」に傍点]なんて気取った段じゃねえ。……なんだ、今度のざまア。てめえら、それで生きているのか、性があるのか」
「な、なんですか、一向にどうも……」
「ざまア見ろ、そんなすッ恍《とぼ》けたことを言ってやがるから、しょうべん組などに出しぬかれるのだ。おい、俺の面をどうする」
「ですから、どういう……」
「聞きたけりゃァ言って聞かしてやる。……番代りの晦日《みそか》に伝馬町《てんまちょう》の堺屋《さかいや》へ検死に行ったのはどいつだ。……嘉兵衛と鶴吉を虎列剌《ころり》と判定《きめつけ》てうっそり帰って来たのは、いってえどいつだ。言え、この中にいるだろう」
大風に吹かれた下草のようにハッとひれ伏してしまう。
藤波は、キリキリと歯軋《はぎし》りをして、
「いかに虎列剌がこの節の流行物《はやりもの》でも、吐瀉下痢《はきくだ》して息をひきとれば、これも虎列剌ですはひどかろう。いってえ、おめえらの職業《しょうべえ》はなんだ。……おい、よく聞け。呉服橋《ごふくばし》ではぬからずに手代の忠助をひっ撲《ぱた》いて、わたくしが毒を盛ったのでございますと泥を吐かしたそうな。……当節、番所は呉服橋だけにある。南じゃ朝っぱらから色ばなし。……いや、見あげたもんだ、感じ入ったよ」
癇性に身を反らして、ひれ伏す岡ッ引どもを、骨も徹れとばかり睨みつけていたが、ふと、眼を外《そ》らして、御用部屋の奥のほうで、頭から絆纒を引ッかぶって寝ている男を見つけると、クヮッと眼尻を釣りあげて、
「だれだ、そこらで寝ころんでいるやつア、面ア出せ、おい」
ゆっくり絆纒をひきのけて起上ると、のっそり囲炉裏のほうへ近づいて来たのは、藤波の右腕といわれるせんぶりの千太、生れてからまだ笑ったことがないという苦ッ面の眉間に竪皺《たてじわ》をよせてムンズリと膝を折ると、
「寝ていたわけじゃアありません、泣いてたんでございます。実ァ……」
と言って、ガックリとなり、
「実は、あッしが検死にまいりました。なんとも、お詫びのもうしようもありません」
藤波は、えッと息をひいて、
「おめえが、……おめえが行って縮尻《しくじ》ったとは、それは、どういう次第で……」
まともに顔をふり向けると、
「それが、……赤斑《あかふ》もあれば、死顔は痴呆《こけ》のよう。下痢《くだ》したものは、米磨汁《とぎじる》のようで、嘔吐《はい》たものは茶色をしております。どう見たって、虎列剌に違いねえので……」
藤波は深く腕を組んで考え沈んでいたが、ふいに顔をあげると、
「そりゃア、確かだろうな」
「へい。……石井順庵先生の御診断《おみたて》でございます。あッしといたしましても、それ以上には、……」
藤波は、かすかに頷いて、
「それで、その毒はなんだ」
「ですから、はなッから、盛り殺したなんてことは誰れの考えにもなかッたことなんで……」
藤波は焦ら立って、
「すると、石井先生にも判定のつかねえような毒を、どこのどいつが見分けたというのだ」
千太は、無念そうに唇を噛んで、
「またしても、顎の化物の仕事なんでございます」
藤波は、ちぇッと舌を鳴らして、
「おい、あの顎はなんだ、神か、仏かよ。……多寡《たか》が番所の帳面繰りじゃねえか、馬鹿にするな。なるほど、今まではちッとは小手先の器用なところも見せたが、そこまでの智慧があろうとは思われねえ。……おい千太、念のために聞くが、では、その忠助という手代は、石井先生にも判らねえような巧妙な毒を盛れるような、そんな才覚《さいかく》のありそうなやつなのか」
「飛んでもない、まるっきり、ふぬけのような男なんでございます。とてもそんなことをしそうなやつじゃアございません」
藤波は、なんとも冷然たる顔つきになって、急に立ち上ると、
「おい千太、出かけよう」
「えッ、出かけようといって、一体、どこへ」
「わかってるじゃねえか、顎化《あごばけ》と一騎打ちに行くのだ。……口書《くちがき》も爪印《つめいん》もあるものか、どうせ、拷問《いた》めつけて突き落したのにちげえねえ。……ひとつ、じっくりと調べあげて、ぶっくらけえしてやろう。さア、堺屋へ行こう、堺屋へ行こう」
聞くより千太は勇み立って、
「ようございます、そういうことになりゃア、骨が舎利《しゃり》になってもやっつけます。いっそ、忝《かたじ》けねえ[#「忝《かたじ》けねえ」は底本では「添《かたじ》けねえ」]」
危険
古すだれの隙間から涼風が吹きこんで、いぎたなく畳の上でごろ寝をしている顎十郎の鬢の毛をそよがせる、それからまた小半刻、顎十郎は、
「ううう」
と、精一杯に伸びをすると、じだらくな薄眼をあけて陽ざしを見あげる。時刻はもうとうに申《さる》をすぎている。
一種茫漠たるこの人物は、この脇坂の中間部屋《ちゅうげんべや》にこれでもう十日ばかり流連荒亡《るれんこうぼう》している。北町奉行所の与力筆頭の叔父庄兵衛が扱う事件に蔭からソッとおせっかいをし、うまく叔父をおだてあげて、纒った小遣いをせしめると、部屋を廻って大盤振舞をして歩く。手遊びをしに来るのではない。中間とか馬丁陸尺とかいう連中にまじって軽口《かるくち》を叩いたり、したみ酒を飲みあったりするのがこの世の愉快だとある。あまり上等な趣味ではない。寝っころがって中間どもの小ばくちを横合から眺めたり、とりとめのない世間話に耳をかたむけたりしながら、金のある間ごろッちゃらしている。尤もここぐらい、いろいろな世間のうわさが早く伝わってくるところもすくない。ここにごろごろしていると、肩が凝らずいながらにして浮世《うきよ》百般の消息がきかれる。顎十郎がいろいろと人の知らぬ不思議な浮世の機微に通暁しているのは、多分、そのためだろうと思われる。ただし、なにか思うところがあってやっているのか、それとも出鱈目《でたらめ》なのか、こんな風来人《ふうらいじん》のことだから、性根《しょうね》のほどはわからない。
中間部屋では顎十郎を知らないものはまずない。このほうでは、だいぶいい顔である。
綽名のゆえんであるところの、ぽってりと長い異様な顎をふりながら顎十郎がのっそり入って来ると、部屋部屋は俄かに活気づく。互いにひどく気が合うのである。謀反《むほん》でも起すとなったら、江戸中の中間どもはひとり残らず顎十郎の味方につきかねない。顎十郎のほうでは、格別なにをしてくれと頼むでもない、のほほんと寝ころがっているのに、中間や馬丁たちはひどく察しがよくて、顎十郎のためにチョコチョコといろいろに働く。なにかすこし変った噂をききつけると、寄ってたかって根ほり葉ほり探り出し、その結果をもって息せき切って駈けつけてくる。顎十郎は、いっこう気のないようすで、ふん、ふんとそれを聞き流している。全くもってふしぎな関係である。
大名の上屋敷、中屋敷、合せて五百六十、これに最少四人二分を乗じただけの人数が、顎十郎の手足のように働くとしたら、これまた一種|端倪《たんげい》すべからざる勢力である。
まず、だいたいこんなようなあんばい。欲《ほっ》すると否とに拘《かか》わらず、ぼくねんじんの顎十郎がいつの間にか、江戸でこんな大勢力になっているということは、たれもあまり知らない。いわんや、叔父の庄兵衛などが知ろうはずがない。馬鹿めが中間部屋にばかり入りびたる、といって外聞悪がるのである。年がら年中、一枚看板の袷をひきずり、夕顔に眼鼻をつけたような、この異相の勤番くずれのどこがよくて、こうみなが惚れるのか、これこそは全くもって不思議。
さて、不思議はふしぎとしておいて、顎十郎は、このへんでようやくパッチリと眼をひらく。もういっぺん伸びをして起上ってあぐらをかくと、まったく、間髪をいれずというふうに、小者がスッと箱膳を運んでくる。
「先生、御膳になさい」
腹がへるとのそのそ起上ることにきまっている。部屋ではこの辺の呼吸はちゃんと心得ている。もっとも、鯛の刺身などつくわけではない。この世界なみに、たいてい眼刺《めざし》か煮〆《にしめ》。顎十郎は、うむとも言わずにめしを喰い出す。飯を喰いおわると、お先煙草《さきたばこ》を一服二服。窓から空を見上げながら、
「だいぶ、涼気が立って来たの」
てなことを、のんびり言っておいて、またごろりと横になろうとするところへ、ひとりの中間が、先生、お手紙、といって封《ふう》じ文《ぶみ》を持って来る。
顎十郎は受取って、
「これは、けぶだの。俺に色文をつける気ちがいなどはねえはずだが……」
ゆっくりと封じ目をあけて読み下していたが、無造作に手紙を袂の中に突っこむと、
「ほう、こりゃア、ひょっとすると喧嘩かな。いやはや、どうも弱ったの」
と、ぼやきながら、剥げちょろの脇差をとりあげ、のっそりと上り框のほうへ歩いてゆく。耳早なひとりが聞きつけて、
「先生!」
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