命《いのち》をおとすことがあった。越後《えちご》や信濃《しなの》や京都の今出川《いまでがわ》の辺ではたびたびあったことである。
 鎌形の傷を鎌風といい、これはかまいたち[#「かまいたち」に傍点]という妖魔の仕業だとされていた。
『倭訓栞《わくんのしおり》』に、
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奥州越後信濃の地方に、つじ風の如くおとづれて人を傷す。よつて鎌風と名づく、そのこと厳寒の時にあつて、陰毒の気なり、西土にいふ鬼弾の類なりといへり。
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 とみえている。いま庄兵衛の膝のうえに拡げてあるのがその『倭訓栞』。つまり、庄兵衛は今までこのかまいたち[#「かまいたち」に傍点]と首っぴきをしていたのである。
 庄兵衛がいつまでもにが虫を噛んでいるので、花世は手持無沙汰になったものとみえ、
「ねえ、かまいたち[#「かまいたち」に傍点]なんぞ、ほんとにいるものなのでしょうか」
 庄兵衛は眼鏡越しに、例のお不動様の三白眼でじろりと花世の顔を見あげながら、
「はて、いないでどうする。そもそも、かまいたち[#「かまいたち」に傍点]とは……」
 花世はニッコリと笑って、
「はい、そもそもは、もう結構。それは耳にたこのよるほど伺いました。……では、それはいったい、どんなかたちをしているのかしら。いたちが鎌を持っておりますの。……ちと、うけとれぬ話だわねえ」
「いたちがなんで鎌などを持つ、ばかめが。……つまり、なんだ、ひとくちに申せば、飛びっちがいに、爪で掻き切るのだわい。えい、うるさい」
「まあ、こわいこと……はやくつかまえて、爪を切っておやんなさいまし」
「なにをくだらぬ……天下の与力筆頭が、いたちなどにかかずらっておられるか、たわけたことを」
「天下の与力筆頭も鎌鼬にかかっては、手も足も出ぬそうな。それならばいいことがござります」
 といって、気をもたせるように忍び笑いをする。
 庄兵衛は、焦れ切って、
「焦らさずに、早く申せ。……なにか、いい智慧でもあるのか」
「両国から香具師《やし》を呼んでおいでなさいませ」
「はて、香具師をどうする」
「香具師と板血《いたち》とは友達だそうでございます」
 庄兵衛は、一本やられて、うむ、といって苦りきってしまった。
 そこへ、ひょろ松が入って来た。
 見ると、いつものざっかけない衣装とちがって、八反《はったん》の上下に茶献上の帯。
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