いを出し、となりの隠居は歯ぬけ謡《うたい》。井戸端では、摺鉢の蜆《しじみ》ッ貝をゆする音がざくざく。
「……どうやら、今日の昼食も蜆汁になりそうだの。……いくら蜆が春の季題でも、こう、たてつづけではふせぎがつかねえ……ひとつ、また叔父のところへ出かけて、小遣にありついてくべえか。……中洲《なかす》の四季庵にごぶさたしてから、もう、久しくなる」
 と、ぼやきながら、煙管《きせる》で煙草盆をひきよせ、五匁玉の粉ばかりになったのを雁首ですくいあげて、悠長に煙をふきはじめる。
 北番所の例繰方《れいくりかた》で、奉行の下にいて刑律や判例をしらべる役だが、ろくろく出勤もせず、番所から持ち出した例帳や捕物控などを読みちらしたり、うっそりと顎を撫でたりして日をくらしている。
 時々、金助町の叔父の邸へ出かけて行って、なんだかんだとおだてあげて小遣をせしめると、襟垢のついた羽二重の素袷で、柳橋の梅川や中洲の四季庵なんていう豪勢な料理茶屋へ、懐手をしたまま臆面もなくのっそりと入ってゆき、かくや[#「かくや」に傍点]の漬物で茶漬を喰い、小判一両なげ出してスタスタ帰ってくる。このへんは、なかなかふるっている
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