ありませんよ」
「本当に、口説いてもいいかの」
「さあ、どうぞ」
「じゃあ、その帯を解いてください」
あどけなく、スラリと立って、帯をとき、
「はい、解きましたよ……あなたに、わちきが口説けますものか」
顎十郎は、お琴の帯を手繰りよせてその端をてらして眺めていたが、とつぜん、
「おい、ひょろ松、……花世さん、ここにも、都鳥が!」
と、いった。
比久尼《びくに》
次の日の朝、いつものように部屋借の二階で寝ころがっていると、階下の塀の外で、おいおい、と権柄《けんぺい》に呼ぶものがある。
顎十郎が窓から首を出して見ると、叔父の庄兵衛が、赤銅《しゃくどう》色の禿頭から湯気を立てながら往来に突っ立っている。
赭ら顔の三白眼で、お不動様と鬼瓦をこきまぜたような苦虫面。ガミガミいうためにこの世に生れて来たような老人だが、これで内実はひどく人がいい。お天気で、単純でおだてに乗りやすく、顎十郎づれに、いつもうまうましてやられて、そのたびにすくなからぬ小遣をせしめられる。
叔父を叔父とも思わぬ横着千万な甥が忌々しくて癇にさわってならぬのだが、そのくせ、なんだか無茶苦茶に可愛い。
どこかとぼけた、悠々迫らぬところがあって、なかなか見どころのあるようだと思っているんだが、例の強情我慢で、そんなこころはけぶりにも見せぬ。顔さえ見れば眼のかたきにして口やかましくがなりつける。
ところで、顎十郎のほうはちゃんとそれを見抜いている。面は渋いが心は甘い、もちゃげてさえ置けばこちらの言いなりと、てんからなめてかかっている。
窓框に頬杖をついて、夕顔なりの長大な顎を掌でささえ、ひとを小馬鹿にしたようなニヤニヤ笑いをしながら、
「いよウ、これは、ようこそ御入来《ごじゅらい》」
庄兵衛は、たちまち眼を三角にして、
「ようこそご入来とは緩怠至極。……これ貴様、このおれをなんだと心得ておる。やせても枯れても……」
「……北番所の与力筆頭、ですか。……いつも、きまり文句ですな。まあ、そうご立腹なさるな、あまり怒ると腹形《はらなり》が悪くなりますぜ。……しかし、なんですな、こうして、真上からあなたのお頭《つむ》を拝見すると、なかなか奇観ですよ、真鍮の燈明皿にとうすみ[#「とうすみ」に傍点]が一本載っかっているようですぜ」
言いたい放題なことをぺらぺらまくし立てると、急にケロリとして
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