顎十郎捕物帳
都鳥
久生十蘭
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)尻尾《しっぽ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)お馬|御囲《おかこい》場
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「ころもへん+施のつくり」、第3水準1−91−72]
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馬の尻尾《しっぽ》
「はて、いい天気だの」
紙魚《しみ》くいだらけの古帳面を、部屋いっぱいにとりちらしたなかで、乾割《ひわ》れた、蠅のくそだらけの床柱に凭れ、ふところから手の先だけを出し、馬鹿長い顎の先をつまみながら、のんびりと空を見あげている。
ぼろ畳の上に、もったいないような陽ざしがいっぱいにさしこみ、物干のおしめに陽炎《かげろう》がたっている。
あすは雛の節句で、十軒店《じっけんだな》や人形町《にんぎょうちょう》の雛市はさぞたいへんな人出だろうが、本郷弓町の、ここら、めくら長屋では節句だとて一向にかわりもない。
露路奥の浪人ものは、縁へ出て、片襷《かただすき》で傘の下張りにせいを出し、となりの隠居は歯ぬけ謡《うたい》。井戸端では、摺鉢の蜆《しじみ》ッ貝をゆする音がざくざく。
「……どうやら、今日の昼食も蜆汁になりそうだの。……いくら蜆が春の季題でも、こう、たてつづけではふせぎがつかねえ……ひとつ、また叔父のところへ出かけて、小遣にありついてくべえか。……中洲《なかす》の四季庵にごぶさたしてから、もう、久しくなる」
と、ぼやきながら、煙管《きせる》で煙草盆をひきよせ、五匁玉の粉ばかりになったのを雁首ですくいあげて、悠長に煙をふきはじめる。
北番所の例繰方《れいくりかた》で、奉行の下にいて刑律や判例をしらべる役だが、ろくろく出勤もせず、番所から持ち出した例帳や捕物控などを読みちらしたり、うっそりと顎を撫でたりして日をくらしている。
時々、金助町の叔父の邸へ出かけて行って、なんだかんだとおだてあげて小遣をせしめると、襟垢のついた羽二重の素袷で、柳橋の梅川や中洲の四季庵なんていう豪勢な料理茶屋へ、懐手をしたまま臆面もなくのっそりと入ってゆき、かくや[#「かくや」に傍点]の漬物で茶漬を喰い、小判一両なげ出してスタスタ帰ってくる。このへんは、なかなかふるっている
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