下ッ引を動員して、市中の質屋、古物|贓品《ぞうひん》買を虱つぶしにあたらせているが、今朝になっても一向に音沙汰がない。
例の強情から、印籠がまだ出ないことは娘や阿古十郎にも秘し隠し、さり気ない体を装っているが、胸の中はまるで津波と颶風が一緒にやって来たような波立ちかた。いても立ってもいられぬような心持である。
番所の表向は、調べ物という体にして、以来、居間から一歩も出ずに閉じ籠っているが、なにをするにも手がつかぬ。
もう、万年青どころの騒ぎではない。
毎朝、殊更らしい顰めっ面をして万年青の前に跼んでいるのは、実のところ、隠しても隠し切れぬ愁傷顔を娘や阿古十郎に見られ、弱り切った本心を覚られまいとする我慢の手管なのである。
それにしても、つい溜息が出る。
もし、出なかったらどうしようと思うとチリ毛が寒くなる。江戸中が手を打って自分を笑いそしる声が、耳元へ聞えてくるような気がする。今まで売った剛愎《ごうふく》が一挙にして泥にまみれる、思わず首をすくめて、
「鶴亀、鶴亀……えんぎでもない……いや、出る出る、必ず出る。万年青が枯れたのが厄落しになろう。これは、いっそ、いいきざしだぞ」
つまらぬことを空頼みにして、ぶつぶつと呟《つぶや》いていると、ふいに後から、こんなことを言うやつがある。
「えへン、何かそこでぼやいていますナ」
権八
振りかえって見ると、いつの間にはいりこんで来たのか、甥の阿古十郎が懐手をしてのっそりと突っ立っている。
阿古十郎は、庄兵衛老にとってたった一人のかけがえのない甥だが、世の中にこんな癪にさわるやつはない。
庄兵衛などは頭から馬鹿にしきっているふうで、てんで叔父の権威などは認めない。口をひらけば必ずなにか癇にさわるようなことをひと言いう。感じがあるのか無いのか、いくら怒鳴りつけても、ニヤリニヤリと不得要領に笑っているばかりで、つかまえどころがない。その揚句、なんだかんだとうまくおだてては幾許《いくばく》かの小遣をせしめる。庄兵衛老、根がお人好しなもんだから、ついひょろりとせしめられ、余程たってから気がついて、また、してやられたぞと膝を掻き※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》って立腹する。
庄兵衛の妹の末子で今年二十八。
五年ほど前に甲府勤番の株を買ってやったが、半年も勤まらず、役をやめて江戸へ出て来たということであったが、どこをのたくっているのか一向に寄りつかず、消息さえもなかったが、昨年の暮近く、垢だらけの素袷に冷飯草履をはき、まるで病上《やみあが》りの権八のような恰好で木枯《こがらし》といっしょにひょろりと舞いこんで来た。
その時の言い草がいい。胡坐をかいたまま、懐から手を出してのんびりと長い顎を撫でながら、
「すこし、親類づきあいをしますかな。……叔父上、あなたも、甥の一人ぐらいは欲しい齢になったろ」
と、言った。
それにしても、ふるった面である。こんなふうに床柱などに凭れていると、そそっかしい男なら、へちまの花活でもひっかかっているのかと感ちがいするだろう。眼も鼻も口も、額ぎわにごたごたとひと固りになり、ぽってりと嫌味に肉のついた厖大な顎がぶらりとぶらさがっている。馬が提灯じゃない、提灯が馬をくわえたとでもいうべき、ちんみょうな面相。この顎が春風を切って江戸中を濶歩する。
ところで、この阿古十郎にたいして、たったひとつ禁句がある。それはアゴという言葉。いや、言葉ばかりではない。この男の前でうっかり顎を撫でたばっかりに、いきなり抜打ちに斬りつけられ、二人までいのちをおとしかけた。風邪ひきなどは、あぶなくて名も呼べやしない。
この話は庄兵衛も人づてに聞いているので、さすがにそれを憚ると見え、アコ十とかアコ十郎とかと、間違いのないようにはっきりけじめをつけて呼ぶ。ただひとり、この世で阿古十郎を面と向って『顎さん』と呼んで憚らない人間がいる。それは、従妹の花世である。これに限って、阿古十郎は眼をなくして笑いながら、うふふ、なんだい、とくすぐったそうな返事をする。
あまりにも緩怠至極《かんたいしごく》な阿古十郎の態度に庄兵衛は呆れたり腹を立てたりしているが、しかし、そうばかりもしていられないので、北番所の例繰方《れいくりかた》に空席のあるのを幸い、その株を買って同心の無足見習にしてやった。
例繰方というのは奉行の下にあって刑律の前例を調べるのが仕事で、割合に格式のある役なのだが、格別ありがたがる風もなく、番所の書庫から赦帳《ゆるしちょう》や捕物帳などを山ほど持ち出し、出勤もせずに弓町《ゆみちょう》の乾物屋《かんぶつや》の二階に寝っころがって、朝から晩までそんなものを読み耽っている。
庄兵衛が外聞わるがって邸にいろというと、気がつまるといって命令に従わない。そのくせ、三日にあげず舞いこんで来て、なにか気に障ることを言っては、その揚句、小遣をせしめて行く。しかし、悪くすれたところはなく、することにとぼけたところがあって憎めない。庄兵衛は阿古十郎が憎らしいのか、可愛いのか自分でもわけがわからない、まるで滅茶滅茶《めちゃめちゃ》な気持なのである。
阿古十郎は例の如く※[#「ころもへん+施のつくり」、第3水準1−91−72]《ふき》のすれ切った黒羽二重の素袷に、山のはいった茶献上の帯を尻下りに結び、掌で裸の胸をピシャピシャ叩きながら、
「ねえ、叔父上、それじゃあんまりおかげがねえ……未練ですよ、そりゃあ」
「おかげがねえ、……これ、下司《げす》な言葉を使うな。おかげがねえとはよくぬかした。そもそも……」
顎十郎は、すぐ引取って、
「そもそも、この万年青さまがお枯れなすったのは、いつぞや御命令によって手前がそれを広縁から運び入れようとした途端、手元が辷っていきなり鉢をひっくりかえしたから。……つまり万年青の逆立ちでもおと[#「もおと」に傍点]悪気のあったのではありません。……お叱りの条は、充分に納得しましたから、もう巻き返されるにゃア及びません。……手前いたって、がさつでね、よくこういう縮尻《しくじり》をやらかします。改めてもう一度お詫びを申しますが、それにしても、でんぐり返しただけで枯れるなんざ、万年青なんてえものもいい加減なもんですな、あんまり尻《し》ッ腰がなさすぎます。……叔父上、ひょっとすると、案外、これはイカモノですぜ」
相手に口をひらかせずに言いたいだけのことを言うと、キョロリと庄兵衛の顔を眺め、
「そう言えば、いま妙なことをぼやいていましたナ。……出る出る。必ず出る、って。……いったい全体、なにが出るんです」
庄兵衛はしどろもどろ。
「な、なにが出ると。……わかり切ったことを……それ、万年青がよ、芽を出す」
花世
顎十郎のほうは叔父がなにを心痛しているかちゃんと知っている。たった今、奥で花世から聞いたので、頼むとひと言いったら、なんとか力を貸さぬでもないと思っているのに、肩で息をつきながら相変らず痩我慢を張っているので、おかしくてたまらない。
「ほほう、それは目出度い。……それでは、すこしおはしゃぎなさい。……ああ愉快、愉快」
と、騒ぎ立てる。
庄兵衛のほうはすこしも可笑《おか》しくない。いよいよ苦り切って、
「ふん、そんなこと位ではしゃげるか、貴様でもあるまいし」
そっぽを向いて、またしても、そっと溜息をつく。
顎十郎は、花世から一件の話をきくと、眼をつぶって、叔父の居間の模様をぐるりと頭の中で一回転させただけで、この紛失事件の綾がすっかりわかってしまった。こんなにたわいのないことを洞察《みぬけ》ないで、よく今日まで吟味方がつとまったものだ。日頃の強情にも似ず、すっかり弱り切っている叔父のようすを見ると、気の毒でもあり可笑しくもある。
錠口でガランガランと鈴の音がする。
庄兵衛は急に生き返ったような顔つきになって縁側へ上ると、わざとノソノソと廊下のほうへ歩いて行く。
「なんだ」
小間使の声がこんなことを言っている。
「淡路町《あわじちょう》からの使いで、例のものが、笠森《かさもり》近くのさる下屋敷へ入ったことを突止めましたから、御足労ながら至急こちらまでお出かけ下さい。笠森稲荷の水茶屋でお待ち申すという口上でございます」
庄兵衛は、急に元気いっぱいになって、
「使いの者に、すぐまいると申しておけ。……外出するからすぐ着換えを出せ、早くしろ」
と、地団太《じだんだ》を踏んでわめき立てる。
顎十郎は、のっそりと座敷に上りながら、
「叔父上、なんの御用か知らないが、初午の日に笠森から使いがくるなんて、ちっとばかし眉つばものだ。こいつァ、化かされるにきまっています。悪いことは言わないからおよしなすったらどうです……どうせ、碌な目に逢いませんぜ」
と、例によってわけのわからぬことをいう。
庄兵衛は焦立《いらだ》って、続けさまに舌打ちをしながら、
「えッ、うるさい、なにをたわ言をつく。貴様の知ったこっちゃアない、黙っておれ」
「そうまでおっしゃるなら、お止めしません。せいぜい初午詣をして日頃の不信心の帳消しをするこってすな、なにか御利益《ごりやく》があるかもしれねえ」
ぶつくさ言いながら、本箱から湖月抄を取り出して、ごろりと座敷へ寝ころぶ。本を読むのかと思ったらそうでなく、それで手拍子をとりながら、寝乱れ髪の柳かげ、まねく尾花の朝帰り……と小唄をうたい出した。
庄兵衛が呆れかえって、むっとふくれて出て行くと、入りちがいに花世が入って来た。顎十郎の枕元へ坐ると、きっぱりした声で、
「顎さん、父上はおっしゃいましたか」
「いや、それが、なにも言わない。……口を締めた田螺《たにし》同様でな、毎度のことながら、手がつけられない」
「こんなところで寝っころがっていてはいけません。のんきらしい」
「はて、起きてなにをしましょうな」
「せめて、しんぱいらしい顔でもなさいな」
今年十七で、早くから母に死別れて父の手ひとつで気ままに育てられたせいもあろう。山の手の手固い武家育ちと思われぬ、ものにこだわらぬ気さくなところがあり、自分の思った通りのことを精一杯に振舞う。
これも顎十郎の奉加につく一人で、このほうは叔父ほど手数がかからない。黙って坐ると、かならずいくらか包んでわたす。どこで覚えたのか、
「すくないけど、小菊半紙でもお買いなさい」
なんて粋なことも言う。
はっきりとした面ざしで、口元に力みがあり、黒目がにじみ出すかと思われるような大きな眼で、相手をじっと見つめる。絖《ぬめ》のような白い薄膚の下から血の色が薄桃色に透けて、ちょうど遠山の春霞のような膚の色をしている。赤銅色のあの獅子噛面がどうしてこんな娘を生んだんだろう。それにしても、武家の娘になんかして置くのは勿体ない。柳橋からでも突出したら、さぞ人死が出来るだろう。……顎十郎は下から花世の顔を見上げながら、こんな不埓なことを考える。
「ねえ、花世さん、路考《ろこう》の門弟の路之助《ろのすけ》が、また新作のはやりうたを舞台でうたっているが、三絃《さみせん》に妙手《て》があるのか、いつみても妙だぜ」
花世は、つんとして、
「また、のんきらしい。……芝居どころじゃありませんてばさ、私にも隠しているから、切り出すわけにもゆきませんが、あんまりな気落ようで、いっそ、こわくッてなりませんよ」
顎十郎はのんびりと顎をなでながら、庭のほうへ眼をやり、
「なアに、案じることはない……こうしていれば、いまに、やってくる」
「なにが、やって来ます」
「いやなに、植木屋でもやって来そうな日和だってことさ」
花世は焦れて、
「冗談ばっかり。……たんとおふざけなさい。私ァ知らないから」
と、拗ねたふうに出て行く。
顎十郎は花世の足音が錠口の向うへ消えるのを聞きすますと、庭へ下りて裏木戸の方へ行き、掛桟《かけさん》を外してまた座敷へ戻って来た。
眷属《けんぞく》
それから小半刻。
煙草盆をひきよせて雲井を輪にふいていると、裏木戸があいて、出入の
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