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星明りで面体はさだかに判らないが、二十五六の身装《みなり》のいい男だったという申立てである。印籠はその場所に落ちていたのを、定廻りが拾って番屋へ持ってきた。覆蓋《おおいぶた》をあけて見ると、赤い薬包が二服入っている。調べて見ると、意外にも、それは猛毒を有する鳳凰角《ほうこうかく》(毒芹の根)の粉末であった。これで話が大きくなった。
昨年の十月十日に湯島天神境内のとよという茶汲女が何者かに毒殺され、それから三日おいて、両国の矢場のおさめという数取女が同じような怪死を遂げた。
検視の結果、砒石《ひせき》か鳳凰角を盛られたものだということがわかったので南番所係で大車輪に探索していたが、今日にいたるまで原因も下手人もようとして当りがつかず、あれこれと馴染の客などをしょっぴいて迷いぬいている最中なんだが、これによって見ると、この印籠の持主さえ突きとめれば、二人の女を毒殺した下手人が知れようという意外な発展を見ることになった。
それは稲を啣《くわ》えた野狐を高肉彫《たかにくぼり》した梨地の印籠だが、覆蓋の合口によって烏森の蒔絵師梶川が作ったものだということがひと目で判るから、そこへさえ行けばどういう主の注文で作ったか容易に知ることが出来る。こういうものがこの番所の手に入ったのは、実にどうも天佑とも天助ともいいようのない次第で、吟味方はもちろん無足《むそく》同心のはてまで雀踊《こおど》りをして喜んだ。これによって永らく腐り切っていた北番所の名をあげることも出来、日頃しょんべん組などと悪態をついている南番所のやつらの鼻を明かしてやることも出来るのである。
その、かけがえのない大切な証拠物件を、庄兵衛がひょろりと紛失してしまった。
どこかへ失くしまして、では事がすまぬ。吟味方一統の失態ともなり、三百人からの人間の上に立つ組頭の体面にもかかわる。こんなことが評判になったら、また南番所の組下が手を叩いて笑いはやすであろう。そんなことはいいとして、もし、ひょっとして、賄賂をとって証拠|湮滅《いんめつ》をはかったのだろうなどと、痛くもない腹をさぐられるようなことにでもなったら、それこそ、のめのめと生きながらえているわけにはゆかぬ、まさに皺腹《しわばら》ものである。
さすが強情我慢の庄兵衛も、これにはすっかり閉口してしまった。
早速、腹心のひょろ松をひそかに呼びよせ、手下の下ッ引を動員して、市中の質屋、古物|贓品《ぞうひん》買を虱つぶしにあたらせているが、今朝になっても一向に音沙汰がない。
例の強情から、印籠がまだ出ないことは娘や阿古十郎にも秘し隠し、さり気ない体を装っているが、胸の中はまるで津波と颶風が一緒にやって来たような波立ちかた。いても立ってもいられぬような心持である。
番所の表向は、調べ物という体にして、以来、居間から一歩も出ずに閉じ籠っているが、なにをするにも手がつかぬ。
もう、万年青どころの騒ぎではない。
毎朝、殊更らしい顰めっ面をして万年青の前に跼んでいるのは、実のところ、隠しても隠し切れぬ愁傷顔を娘や阿古十郎に見られ、弱り切った本心を覚られまいとする我慢の手管なのである。
それにしても、つい溜息が出る。
もし、出なかったらどうしようと思うとチリ毛が寒くなる。江戸中が手を打って自分を笑いそしる声が、耳元へ聞えてくるような気がする。今まで売った剛愎《ごうふく》が一挙にして泥にまみれる、思わず首をすくめて、
「鶴亀、鶴亀……えんぎでもない……いや、出る出る、必ず出る。万年青が枯れたのが厄落しになろう。これは、いっそ、いいきざしだぞ」
つまらぬことを空頼みにして、ぶつぶつと呟《つぶや》いていると、ふいに後から、こんなことを言うやつがある。
「えへン、何かそこでぼやいていますナ」
権八
振りかえって見ると、いつの間にはいりこんで来たのか、甥の阿古十郎が懐手をしてのっそりと突っ立っている。
阿古十郎は、庄兵衛老にとってたった一人のかけがえのない甥だが、世の中にこんな癪にさわるやつはない。
庄兵衛などは頭から馬鹿にしきっているふうで、てんで叔父の権威などは認めない。口をひらけば必ずなにか癇にさわるようなことをひと言いう。感じがあるのか無いのか、いくら怒鳴りつけても、ニヤリニヤリと不得要領に笑っているばかりで、つかまえどころがない。その揚句、なんだかんだとうまくおだてては幾許《いくばく》かの小遣をせしめる。庄兵衛老、根がお人好しなもんだから、ついひょろりとせしめられ、余程たってから気がついて、また、してやられたぞと膝を掻き※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》って立腹する。
庄兵衛の妹の末子で今年二十八。
五年ほど前に甲府勤番の株を買ってやったが、半年も勤まらず、役をやめて江戸へ出て
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