来たということであったが、どこをのたくっているのか一向に寄りつかず、消息さえもなかったが、昨年の暮近く、垢だらけの素袷に冷飯草履をはき、まるで病上《やみあが》りの権八のような恰好で木枯《こがらし》といっしょにひょろりと舞いこんで来た。
 その時の言い草がいい。胡坐をかいたまま、懐から手を出してのんびりと長い顎を撫でながら、
「すこし、親類づきあいをしますかな。……叔父上、あなたも、甥の一人ぐらいは欲しい齢になったろ」
 と、言った。
 それにしても、ふるった面である。こんなふうに床柱などに凭れていると、そそっかしい男なら、へちまの花活でもひっかかっているのかと感ちがいするだろう。眼も鼻も口も、額ぎわにごたごたとひと固りになり、ぽってりと嫌味に肉のついた厖大な顎がぶらりとぶらさがっている。馬が提灯じゃない、提灯が馬をくわえたとでもいうべき、ちんみょうな面相。この顎が春風を切って江戸中を濶歩する。
 ところで、この阿古十郎にたいして、たったひとつ禁句がある。それはアゴという言葉。いや、言葉ばかりではない。この男の前でうっかり顎を撫でたばっかりに、いきなり抜打ちに斬りつけられ、二人までいのちをおとしかけた。風邪ひきなどは、あぶなくて名も呼べやしない。
 この話は庄兵衛も人づてに聞いているので、さすがにそれを憚ると見え、アコ十とかアコ十郎とかと、間違いのないようにはっきりけじめをつけて呼ぶ。ただひとり、この世で阿古十郎を面と向って『顎さん』と呼んで憚らない人間がいる。それは、従妹の花世である。これに限って、阿古十郎は眼をなくして笑いながら、うふふ、なんだい、とくすぐったそうな返事をする。
 あまりにも緩怠至極《かんたいしごく》な阿古十郎の態度に庄兵衛は呆れたり腹を立てたりしているが、しかし、そうばかりもしていられないので、北番所の例繰方《れいくりかた》に空席のあるのを幸い、その株を買って同心の無足見習にしてやった。
 例繰方というのは奉行の下にあって刑律の前例を調べるのが仕事で、割合に格式のある役なのだが、格別ありがたがる風もなく、番所の書庫から赦帳《ゆるしちょう》や捕物帳などを山ほど持ち出し、出勤もせずに弓町《ゆみちょう》の乾物屋《かんぶつや》の二階に寝っころがって、朝から晩までそんなものを読み耽っている。
 庄兵衛が外聞わるがって邸にいろというと、気がつまるといって命令に従わない。そのくせ、三日にあげず舞いこんで来て、なにか気に障ることを言っては、その揚句、小遣をせしめて行く。しかし、悪くすれたところはなく、することにとぼけたところがあって憎めない。庄兵衛は阿古十郎が憎らしいのか、可愛いのか自分でもわけがわからない、まるで滅茶滅茶《めちゃめちゃ》な気持なのである。
 阿古十郎は例の如く※[#「ころもへん+施のつくり」、第3水準1−91−72]《ふき》のすれ切った黒羽二重の素袷に、山のはいった茶献上の帯を尻下りに結び、掌で裸の胸をピシャピシャ叩きながら、
「ねえ、叔父上、それじゃあんまりおかげがねえ……未練ですよ、そりゃあ」
「おかげがねえ、……これ、下司《げす》な言葉を使うな。おかげがねえとはよくぬかした。そもそも……」
 顎十郎は、すぐ引取って、
「そもそも、この万年青さまがお枯れなすったのは、いつぞや御命令によって手前がそれを広縁から運び入れようとした途端、手元が辷っていきなり鉢をひっくりかえしたから。……つまり万年青の逆立ちでもおと[#「もおと」に傍点]悪気のあったのではありません。……お叱りの条は、充分に納得しましたから、もう巻き返されるにゃア及びません。……手前いたって、がさつでね、よくこういう縮尻《しくじり》をやらかします。改めてもう一度お詫びを申しますが、それにしても、でんぐり返しただけで枯れるなんざ、万年青なんてえものもいい加減なもんですな、あんまり尻《し》ッ腰がなさすぎます。……叔父上、ひょっとすると、案外、これはイカモノですぜ」
 相手に口をひらかせずに言いたいだけのことを言うと、キョロリと庄兵衛の顔を眺め、
「そう言えば、いま妙なことをぼやいていましたナ。……出る出る。必ず出る、って。……いったい全体、なにが出るんです」
 庄兵衛はしどろもどろ。
「な、なにが出ると。……わかり切ったことを……それ、万年青がよ、芽を出す」

   花世

 顎十郎のほうは叔父がなにを心痛しているかちゃんと知っている。たった今、奥で花世から聞いたので、頼むとひと言いったら、なんとか力を貸さぬでもないと思っているのに、肩で息をつきながら相変らず痩我慢を張っているので、おかしくてたまらない。
「ほほう、それは目出度い。……それでは、すこしおはしゃぎなさい。……ああ愉快、愉快」
 と、騒ぎ立てる。
 庄兵衛のほうはすこしも可笑《おか》
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