いが甘いですナ。しょせん、だらしがねえと言うべきでしょう」
と、遠慮なくいちばん痛いところを突っついて、庄兵衛を歯噛みさせる。
……それから、もうひとつは、万年青つくり。このほうは、まるで狂人《きちがい》沙汰。
万年青
万年青つくりは天保以来の流行物で、その頃でさえ一葉二百金などというのも珍らしくなかったが、嘉永三年になると、一鉢八千両という天晃竜《てんこうりゅう》の大物が出た。
この取引があまり法外で、世風に害があるというので、嘉永五年になってとうとう売買を禁じたが、なかなかそんなことで下火にはならない。禁令のおかげで却って人気が出て、文久のはじめごろは猫も杓子も万年青つくり、仕事もなにも放りぱなしで、壌士《こえつち》は京都の七条土に限るのそうろうの、浅蜊の煮汁をやればいいのとさんざんに凝りぬく。
庄兵衛は凝り屋の総大将で、月番があけると、朝から晩まで万年青の葉を洗って日をくらす。なかんずく、錦明宝《きんめいほう》という剣葉畝目地白覆輪《けんばうねめじしろふくりん》の万年青をなめずらんばかりに大切にし、どこの町端《まちは》の『万年青合せ』にも必ず持って出かけて自慢の鼻をうごめかす。これは、三年前『万年青番付』の東の大関の位に坐ったきり動かぬという逸品で、価二千金と格付されているのだから、この自慢も万更いわれのないことではない。
ところで、娘の花世をのけたら、命から二番目というその錦明宝が、どういうものか四日ほど前から急に元気が無くなった。
葉いちめんに灰色や黒の斑点が出来て艶がなくなり、ぐったりと葉を垂れて、いわば、気息|奄々《えんえん》というていである。
庄兵衛の狼狽ぶりは目ざましいほどで、せっせと水をやったり削節《けずりぶし》の汁をやったりするが、一向に生気がつかない。手をつくせばつくすほどいよいよいけなくなるように見える。毎朝起きぬけから縁先に突っ立っているが、つくせるだけの手はつくして、もうどうするという名案もない。愁傷の眉をよせて、手を束ねているよりほかないのである。
そればかりではない、庄兵衛老、ここのところ少々御難つづきのていで、いろいろとよくないことが起る。
めったにないことに娘の花世が急に熱を出し、死ぬほど胆を冷やして狼狽《うろた》えまわったが、これがようやく治まったと思ったら、厩から火事を出しかけた。幸い大事に至らぬうちに消しとめたが、今度は最近江戸を騒がしたおさめ[#「おさめ」に傍点]殺しの唯一の手懸りとも言うべき、かけがえのない大切な証拠物件を紛失してしまった。
それは梨地鞘造《なしじさやづくり》の印籠《いんろう》で、たしかに袂へ入れて邸を出たはずなのだが、聖堂の近くまで来たとき、ふと気づいて探ぐって見るとそれが袂の中にない。邸を出る前までたしかに居間の文机《ふづくえ》の上に置いたことはわかっているのだが、なにしろ朝の時間は万年青で夢中になる習慣なので、置き忘れて来たものか持って出たものか、その辺のところがはっきりしない。これは、というので少々青くなって駕籠を傭って邸まで飛び帰り、文机の上を見ると、……印籠などはない。
座敷の中に棒立ちになってじっくりと考えこんでみたが、どうも落したような気がしない。のたりと座敷に寝ころんでいた阿古十郎にそれとなく訊ねて見たが、そんなものは知りませんねえ、と鼻であしらわれた。
傭人《やといにん》どもは、みな五年十年と勤めあげた素性の知れたものばかりで、おまけに、この居間には番所会所の書類など置いてある関係上、廊下に錠口をつくって、そこからは一歩も入れないようにしてあるのだし、庄兵衛が出てゆくと、すぐ入りちがいに阿古十郎が入って来て、ずっと今まで、ここに寝ころがっていたというのだから、そのわずかの間に忍んで来てそんな素早い仕事が出来よういわれがない。
念のため、一人ずつ糺明して見たが、双互の口合いからおして、一人として錠口までも来たものがないことがわかった。娘の花世に訊ねて見たが、花世も知らないと答えた。
与力の邸へ盗人が忍び入ろうはずもないが、庭へ降りて裏口の木戸を改めて見ると、桟は内側からちゃんとかかっている。
庭のそとはすぐ春木町《はるきちょう》の通りになっているが、高い板塀には黒鉄の厳重な忍返しがついているし、昼間は相当人通りのはげしい通りだから、怪しまれずに板塀を乗り越えることなどは出来ない。となると、やはり持って出て、どこかへ落したのだと思うほかはない。
十日ほど前、芝|田村町《たむらちょう》の路上でちょっとした喧嘩沙汰があった。
斬られたほうは四谷|箪笥町《たんすまち》に住む旗本の三男の石田直衛。双方とも酒気を帯びていて、行きずりの口論から抜きあわせたのだが、相手は直衛の小手に薄傷を負わせておいて逃げてしまった
前へ
次へ
全7ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング