からないとしたら、やはり怖いでしょう」
「ぷッ、冗談いっちゃいけねえ。……六十尺もある崖に宙吊りになって、あんな後生楽《ごしょうらく》を並べていたお前さんでも、怖いものがありますのか」
「まあ、いやだ。……あなた、あれを聴いていたの。そんなら、今更、猫をかぶっても手おくれね」
「いい加減にからかっておきなさい、手前は先を急ぐから、あんたなんかに、かまっちゃいられねい」
わざと身振りをして立ちかかると、女は手で引きとめ、
「あたしをこんなところへ一人おいて行って、狼にでも喰われたらどうします。……それこそ仏をつくって魂を入れずというもんだわ。……それに、少々折入ってお願いがありますの」
顎十郎は、頭を掻いて、
「やあ、どうもこいつは弱った。……お願いというのはいったいどんなことけえ。……気が急《せ》くからね、手ッ取り早くやってくだせい」
「どうやらあんたは甲府訛。……あちらのほうからいらした方なの」
「わしゃあ甲府の郷士の伜でね、江戸へ出るのはこんどが始めてだ。……それはそうと、いってえ、どんな科《とが》であんなえれえ目にあっていなすったけえ」
「あたしは本性院様というお局の側仕えで
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