[ム・ド・グウテ………………二〇〇法
モン・ブラン………………………五五〇法
ビオナッセエ針峯…………………一八〇法
緑の針峯《エイギュイユ・ヴェルト》……………………二五〇法
(小売の部)
分売《デタイユ》は一〇|米《メートル》につき二〇法也。
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[#地から2字上げ]A・A・ガイヤアル商会
三、頂はどこにでもあり、私製のモン・ブラン。オ、オ、オ国の方にはずいぶん高い山があるそうですなあ。カ、カ、カンチェンジュンガとか、ヒ、ヒ、ヒ(以下略)ヒマラヤなんてねエ。お二人なんぞさんざその方をお荒しになったんでしょ。(笑)ホ、ホ、ホ、お隠しになっちゃいやですよ。アタシなんぞもね、長年この土地で苦労して、いまじゃ、モン・ブランの背中の隠し黒子《ほくろ》のありかまで知ってるんですヨ。こう、目をつぶると羚羊《かもしか》が三匹|氷桟《コリドオル》の上を走って行くのが、ありありと心眼に写るんだから不思議なもんです。なにしろ、卸売はみなやりますが、山の小売をするのは、シャモニイじゃアタシんとこだけで、いろいろ有名な方々にごひいきを願っているんですヨ。「モン・ブランを二十|米《メートル》だけ頼むよ」「へえ、よろしい」「グウテを十米だよ」「おっと合点」ってわけで、お客様のお望みの寸法だけ差し上げるんですヨ。副事業として写真もやっておりますがね、せいぜい五米ぐらいの岩へぶらさがって、「おい、これで写真を一枚」とおっしゃれば、そこは手前の写真術で、五十米も切り立った岩壁へぶらさがって、あわや、危機一髪! てな工合に写して差しあげるんです「モン・ブランの絶頂を一枚たのむ」とご下命がありますとネ、こいつをラ・コートの小山の頂きへ持って行って、下から仰げば、これが(モン・ブランの絶頂でパイプを喫《す》う図)ってのになるわけですヨ。こいつが故郷《おくに》の土産《みやげ》になる価値といったら誠に莫大なもので、
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苦心酸胆[#「苦心酸胆」に傍点]、×日×時×分、ついに
モン・ブランを征服す。
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なんて、ちょっと書き入れておけば、一生の記念になるってもんじゃありませんか。いかがでしょう。この際格別勉強いたしますヨ。モン・ブランを十米ばかりいかがさまでしょう。なアに、危ないことなんかありますものか。一体、山から落ちるってエますのは、落ちるようなところを登るから落ちる。お客さまの方で、どうしても落ちたいとおっしゃるので、アタシ達も泣く泣くそっちの方へご案内するんですが、「おい、落ちなくてもいいよ」とおしゃるなら、まるでニースの国道のような大幅の廻り路をご案内するんでございますヨ。……本当かって、アナタ、いやですヨ。そう一々落ちていたんじゃ、山案内の種切れになるじゃありませんかよウ。そういうアタシだってもう三千度の上は登っていますが、まだこの通り生きながらえて、おしゃべりをしているんですから、こんな立派な生《いき》証拠ってございませんヨ。……ねえ、お嬢さアん。アタシはとりわけご婦人のご案内をいたしますのに妙を得ていますんで、ご婦人のお嗜好《このみ》なら、どんなことでもちゃんと承知しているつもりなんですヨ。なにしろ殿方ばかりをご案内いたしますとねエ、さあ、アタシが危ない、なんてときは薄情でしてねエ。見殺しにもしかねないんですよ。そこへいくとさすがご婦人ですねエ、アタシが危ない時は、ちゃんと助けてくだすって、優しく介抱してくださるから、アタシも安心してご案内できるってもんですヨ。それに、だいいち色っぽいですナ。モン・ブランの頂上の記念石《ドルメン》に腰をかけて、こう、コンパクトなんか出して、チョイ、チョイと顔をたたくナンテのは、いうにいわれない味がありますねエ。ねえ、お嬢さんお供さしてくださいましヨ。いいでしょう……え、日本《ジャポン》……。ははア、日本ってのはどっちの方角だか知りませんが、そんならなおさらのことですヨ。アルプスに日本のご婦人が登ったって記録はまだないんだから、アナタが口開《くちあ》けになるわけですヨ。……こりゃもう大評判になりますネ。シャモニイ中の雄という雄はみな眺望鏡でのぞいちゃのぼせあがって鼻血を出しますヨ。破《わ》れ返るような騒ぎになりますネ。……それにさ、アナタが口開けだってことになればアルプス倶楽部だって黙っていませんヨ。花火をあげるやら、送別会をするやら、テンヤワンヤするにきまってます。ね、お嬢さん、おやんなさいヨ、おやんなさいよウ。せつにアタシおすすめしますヨ。山の方は万事アタシが。
四、午《うま》年生れは山にて跳るべからず、厄災《やくさい》あり。扉《ドア》開けてつかつかと次の間から出てくると、タヌは、
「コン吉君、すまないけど、あたし、明日《あす》モン・ブランに登ることにしたからそう思ってちょうだい。あんたもまごまごしないで、早く仕度をしたらどう」といいすてたまま、今度は次の間から登山綱《ザイル》を持ち出してせっせと輪を作り、水筒、靴下、油紙といったようなものを、やたらにリュック・サックに詰め出した。コン吉は仰天して、
「うわア、こりゃ情けないことになった。どうしてまたそんな気になったのかね。多分あの吃漢《どもり》の話を真に受けて、アルプス倶楽部に花火をあげさせるつもりなんだろうけれども、君だって、担架《プランキアル》で運ばれて来たあの血綿のような塊を見ないわけじゃなかったろ。氷河へ行けば大きな亀裂《クレヴァス》がある。吹雪は吹く。まるで琺瑯引《ほうろうび》きの便所の壁のように、つるつるした氷の崖なんかがあって、女の子なぞには手も足も出るもんじゃないよ。ねえ、タヌ君、もし雪崩《なだれ》に押し落とされて、下の岩角でお尻をぶったらどうするつもりだね。そんなところへ青痣《あおあざ》をつけて、どうしてのめのめ日本へ帰られるものか。それから僕だって、……これ見たまえ。この僕のガニ股で、どうして西洋剃刀の刃のように狭い氷の山稜《アレート》を伝えるものか。それに僕は、あいにく午年生れで、高いところへ登れば、たちまち目がくらむようにできているんだ。谷底へ落ちてこなごなになってしまってからは、支那人の焼き継ぎでもハンダでも喰っ付きはしないからね。あ、桑原、桑原。……生命《いのち》あっての物種だ、どうか山登りだけは思いとどまってくれたまえ。思いとどまったというまでは、死んでもこれを離さないから」と、リュック・サックにすがってかき口説くと、タヌは、いきなりそいつをひったくって
「なにするのよオ。……チョイト君、君もずいぶんおたんちんね。君がいくらそんな顔をしたって、もうあとの祭りよ。ね、君、コン吉君、ここからモン・ブランのてっぺんまでは、ちゃんと国道がついているのよ。あんまり心配しないでね。……いいかい、コン吉君、よく聞きたまえ。あたしがモン・ブランへ登ろうってのは私事じゃないのよ。……ふらんす・あるまん・あんぐれい、あめりっく・おらんだ・ぽるちゅげえ、と世界中の国々の女の子が、みな一度は登ってるってのに、日本の女の子だけは、みな麓をしゃなしゃな[#「しゃなしゃな」に傍点]散歩して引き上げたってんだから、あたしは、納まらないのよ。ナンダイ! 多寡の知れた、あの山形のシャッポ。あの上に日章旗を押したててね、(高い山から谷底見れば――)の一つも歌ってさ、皇国《みくに》の光を八紘《はっこう》に輝やかさではおくべきや、エンサカホイ、ってわけなんだよ。……どう、わかったかい。君が行かないなんていったって、がんじからめ[#「がんじからめ」に傍点]にして畚《もっこ》に乗せたって連れて行くわよ。……どう、ひとつここでやってみましょうか」といって、登山綱《ザイル》をしごきかけると、コン吉はたちまち降参して、
「いや、行きます、お供します。どうか、その、がんじからめ[#「がんじからめ」に傍点]だけはごかんべん願います」と、手を合わした。
「そう。そんならさっそくだけど、あたしの部屋にあるものを、みなこん中へ詰め込んで、ラ・コートの村の旅籠屋《オテル》まで一足先に出発してちょうだい。あの山案内《ギイド》は明日《あす》の夜明けに、そこへ迎いに来ることになってるんだから」
「へい、かしこまりました」と、コン吉が次の間へ入ってみると、さながら大観工場の棚ざらえのごとく、
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フライ・パン、大|薬鑵《やかん》、肉ひき機械、珈琲《コーヒー》沸し、テンピ、くるみ割り、レモン汁絞器《しぼり》、三鞭酒《シャンペンシュ》、ケチャップ・ソース、上靴、小蒲団《クッサン》、ピジャマ、洗面器、マニキュア・セット、コロン水、足煖炉、日章旗、蓄音機、マンドリン、熊の胆《い》、お百草、パントポン、アドソルピン、腸詰め、卓上電気、その他いろいろ……
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という工合に、机の上と下に参差落雑しているので、さすがのコン吉もあきれ果て、
「つかぬことをうかがうようですが、このマンドリン、ってのは一体何の代用に使うのですかね」とたずねると、タヌは口をとがらして、
「馬鹿ね(高い山から)の伴奏を弾くんじゃありませんか」といった。
五、河童《かっぱ》の川知らず、山案内《ギイド》の身知らず。ブルタアニュの漁師の着る寛衣《ブルウジ》にゴム靴という、はなはだ簡便な装《いでたち》をした吃《どもり》のガイヤアルの角灯《ランテルヌ》を先登にして「|尖り石《ピエール・ポアンチユ》」のホテルを出発。ボッソン氷河の横断にとりかかったのは翌朝の午前三時。
見あぐれば淡い新月に照らされて、碧玉随《へきぎょくずい》のような螢光を発し、いまにも頭の上に落ちかかろうとする怪偉な山容は、これぞアルプスの大伽藍《だいがらん》モン・ブランの円蓋《えんがい》。
ガイヤアルのあとに続きますのは狐のコン吉。小山のようなルュック・サックを背中にしょい、納めようのない鉄鍋は、やむを得ずこれを頭にかぶり、フライ・パンとマンドリンを腰の廻りにくくりつけ、右手には氷斧《アックス》、左手には薬鑵、それでも足らずに首からは望遠鏡と肉ひき機械を吊し、洗濯板のように、高低ただならぬ凍った波頭の上を、漂うごとく流るるごとく、寒風の中に汗を流し、呻吟《しんぎん》の声を発して行進する。タヌの方は、ぐるぐると巻きつけた登山綱《ザイル》の中から目だけを出し、愛用のハンド・バッグを小脇にかかえ、楚々《そそ》たる蓮歩を運びたもう様子。
氷河には至るところに青黒い口を開けた地獄の入口がある。この亀裂《クレヴァス》に落ちたが最後、二度とこの世の光りは見られない。ガイヤアルは亀裂《クレヴァス》の上にかかった薄い氷の橋を、ほじくり返しかき廻し、雪か氷か確かめては渡ってゆく。重荷をしょったコン吉にとっては、これは誠に薄氷を踏む思い、踏み破ったらこの世からお暇《いとま》、助けたまえ、神々と、お尻をもたげ、マンドリンの空《そら》鳴りにも胆を冷やしながら、虫が這うようにしてまかり通る。
幾たびかの危難ののち、ようやく『烏《コルポオ》』の岩地《がらば》にたどり着き、その頂きに登ったところで、アルプスの山々は薄い朝霧の中で明け始めた。頂きがまず桃色に染まりおいおい朱に、やがて七彩の氷暈《ハロ》が氷の断面一帯に拡がり始める。風が少し出て鋭い朝の歌を奏し、落石と雪崩《なだれ》の音が遠雷のように峯谷々に反響する。
三人は『烏《コルポオ》』の頂きで手の込んだ朝食をすませ、山稜に沿って南へ『|烏の嘴《ベック・ア・コルポオ》』までくだり、タッコンナの氷河を渡って、いよいよそこからグラン・ミューレの大難場、氷の絶壁へととりかかる。コン吉はこの酷薄無情な氷の璧を見あげていたが、やがて悲鳴ともろ共に、
「タヌ君、いくらなんでもこの移転《ひっこし》荷物[#「荷物」に傍点]のままでは、この崖はのぼれない。この中にある雑品はいずれ僕が弁済することにして、とにかくここへ放棄するから悪しからず」というと、タヌはおもしろからぬ面持で、
「仕様がないわね。じゃお鍋類はいいから、マンドリンと日章旗と三鞭酒《シャ
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