ニにしたからそう思ってちょうだい。あんたもまごまごしないで、早く仕度をしたらどう」といいすてたまま、今度は次の間から登山綱《ザイル》を持ち出してせっせと輪を作り、水筒、靴下、油紙といったようなものを、やたらにリュック・サックに詰め出した。コン吉は仰天して、
「うわア、こりゃ情けないことになった。どうしてまたそんな気になったのかね。多分あの吃漢《どもり》の話を真に受けて、アルプス倶楽部に花火をあげさせるつもりなんだろうけれども、君だって、担架《プランキアル》で運ばれて来たあの血綿のような塊を見ないわけじゃなかったろ。氷河へ行けば大きな亀裂《クレヴァス》がある。吹雪は吹く。まるで琺瑯引《ほうろうび》きの便所の壁のように、つるつるした氷の崖なんかがあって、女の子なぞには手も足も出るもんじゃないよ。ねえ、タヌ君、もし雪崩《なだれ》に押し落とされて、下の岩角でお尻をぶったらどうするつもりだね。そんなところへ青痣《あおあざ》をつけて、どうしてのめのめ日本へ帰られるものか。それから僕だって、……これ見たまえ。この僕のガニ股で、どうして西洋剃刀の刃のように狭い氷の山稜《アレート》を伝えるものか。それに
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