ました場合には、金銭をもって支払わずに、鼻が欠けたら鼻、腕がもげたら腕、という工合に、実物代品をもって弁済いたすという仕組でござります。リヨン市には弊社に附属する優秀なる外科整形病院がございまして、まことに手ぎわよく、原品同様に修理工作をいたしましてご返却いたす次第でございます。また、万一ご落命の節は、葬儀万般弊社が取りはからいまして、第一等の伊太利亜《イタリア》大理石を墓碑に撰び、お指定の墓地の通風採光よろしき個所にご埋葬申しあげるてはずになっておりまする。如何《いかが》でござりましょうか。山には登るべし、保険には入るべし、という諺も昔から……」
くだくだしきルナアル保険会社の長広舌のうちに、汽車は無事に聖《サン》ジェルヴェの駅に到着。ここで|P・L・M《パリ・リヨン・メディティラーネ》の本線はおしまい。これから電気鉄道に乗って、モン・ブランのトバ口《くち》ともいうべき、シャモニイ・モンブランの町へたどるのである。
このあたりはもはや二千六百|呎《フィート》の標高。山毛欅《ヘエトル》の林の奥のお花畑には羊の群が草を喰《は》み、空をきりひらくアルプスの紙ナイフは、白い象牙の鋩子《ぼうし》を伸べる。光る若葉|山杜鵑《やまほととぎす》。
二、落ちては登る人魂《ひとだま》の復原運動。南は嶮山重畳のモン・ブラン群《マシッフ》と、氷河の蒼氷を溶かしては流すアルヴの清洌、北には雲母《きらら》張りの衝立《エクラン》のように唐突に突っ立ちあがるミデイ・ブラン、グレポンの光峰群《デ・セイギイユ》。この間の帯のような細長い谷底がシャモニイの町。
山の町と一口にいっても、ここは世界に著名《なだた》るアルプス山麓の大遊楽境、宏壮優雅な旅館《ホテル》・旗亭《レストオラン》が甍《いらか》をならべ、流行品店《グラン・モオド》、高等衣裳店《スチュディオ》、昼夜銀行に電気射撃、賭博館や劇場やと、至れり尽せりの近代設備が櫛比《しっぴ》して、誠に目を驚かすばかりの殷賑《はんじょう》、昼は犬を連れて氷河のそばで five o'clock tea、ホテルの給仕《バレエ》に小蒲団《クッサン》を持たせてブウシエの森でお仮睡《ひるね》。夜は MAJESTIC−PALACE の広間に翻る孔雀服《パウアンヌ》の裳裾《もすそ》、賭博館の窓からは、(|賭けたり、賭けたり《フェト・ヴォ・ジュウ・メッシュー》)という|玉廻し役《クルウピエ》の懸け声もきかれようという。右行左行するものは遊子粋客にあらざれば、偽装いかめしい|氷海の見物客《メール・ド・グラス》ばかり、かいがいしい登山者は町はずれででもなければ見当らない。
そのシャモニイの町の、停車場に近い英国教会の墓地から、飄々と立ち現われて来たのはタヌキ嬢ならびに狐のコン吉の二人連れ。なにやら浮かぬ顔をしてしきりに爪を噛んでいたコン吉が、
「いや、なかなかすごいものだね、タヌ君。君、いまの碑銘を読んだかね。(ロバートソンの足の指をここに葬る。残余はタッコンナの氷の下にあり)なんてのは、どうもさんざんな最期だね。残った部分がこう少なくては保険会社でも弁済の法がつくまい。桑原、桑原」というとタヌは眉をひそめて、
「でも爪の伸びた足の指なんて不潔ね。あたしなら、そうね、うす桃色の耳かなんか残してやるつもりよ。……それはそうと、あっちにずいぶん人だかりがしてるけど、……」
コン吉がその方を見ると、町役所の土壇《テラッス》に持ち出された大眺望鏡を十重|二十《はた》重に取り囲んだ群集が、いずれも殺気だった面持で虚空をみつめているので、日ごろ物見高いコン吉はたちまち活況を呈してそっちへ駆け寄り、そばの肥満紳士に、
「戦争ですか。飛行機ですか」と、あわただしくたずねると、紳士は唇に指を立て、
「しっ! |緑の光峰《エイギュイユ・ヴェルト》の氷壁で三人の男が落ちかかって綱一本でぶらさがってるのです」
「うわア! これは大変」とコン吉が、人垣を押し分けて円陣の中心をのぞくと、|C・A・F《フランス・アルプスくらぶ》の徽章をつけた男が、眺望鏡に目を押しあてて、一心に空をみつめながら、金切り声で、不幸な一行の動静を披露《アノンセ》している。
「あ、落ちます、落ちます。……先登《テエト》の山案内《ギイド》は必死に岩鼻にしがみついていますが、もう三人を支える力がない……。最後《クウ》の奴はしきりに足場《トラアス》を刻もうとしていますが、斧《アックス》は壁へ届きません。……揺れ出した、揺れ出した、……風が出て来たと見えて、時計の振り子のように動いています。……あ、あ、畜生、なにをするんだ。……先登《テエト》は片手を離しました。……あ、また抱きつきました。……|偉いぞ《ブラヴォ》、|偉いぞ《ブラヴォ》!……そこを離すな、もう少しだ。……あああッ!……いけな
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