塔yンシュ》だけはぜひ持って登ってちょうだい」
さてここで、ガイヤアル=タヌ=コン吉という工合に、一本綱で三人をつなぎ、氷の中からところどころに顔を出している岩塊にとりつきながら登攀《とはん》を始めた。見あげると、岩頭に吹きつけられた大きな雪塊が、いまにも雪崩《なだ》れ落ちて来るかと思われ、うつむけば断崖の下には氷の砕片《デプリ》[#ルビの「デプリ」はママ]が鋭い鮫の歯を並べている。コン吉は目玉をすえ、口で息をしながら、はや一|切《さい》夢中でにじりあがる。タヌはと見れば、これも先ほどの威勢もどこへやら、これ一本が命の綱、と釣られた鮒《ふな》のようにあがって来る。
一つ登れば、そのまま次に玻璃《ガラス》を張ったような蒼い氷の壁が現われる。八寒地獄の散歩道《プロムナード》もかくやと思われるばかり。
焦慮|瘠身《そうしん》幾時間ののち、やがて、ミューレの平場《プラトオ》へ届こうとするころ『グーテの円蓋《ドオム》』の頂きに、ふと一|抹《まつ》の雪煙りが現われた。驚きあわてたガイヤアルが、その凶徴を指さしながら、
「フ、フ、フ、フ……」と披露する間もあらせず、細かい吹雪まじりの突風が横なぐりに吹きつけ始めた。たちまち四辺《あたり》は瞑々たる白色の中に沈み、いまにも天外に吹き飛ばされようと思うばかりに、その風のすさまじさ劇《はげ》しさ、コン吉は凍える指に力を集め、必死と岩にしがみつき、
「オーイ、オーイ」と呼びかけると、はるか上の方からは途切れ途切れにガイヤアルの血声。
「モ、モ、モシ、……下《シタ》ノ方《カタ》。……オ助《タス》ケ下《クダ》サアイ。……手《テ》、手《テ》ガチギレソーダ。……アア……落《オ》チル、……落《オ》チル……」
「手なんか離すなよオ」
「しっかりしてちょうだいよウ」
「ア、アタシ 悪《ワル》カッタヨー。……ヤ、ヤ、山《ヤマ》ナンカ、キョウガ、ハ、ハ、ハジメテナンダ……アタシニハ……カミサンモ……コ、コ、小供《コドモ》モアルンダヨー。……ワア! 助《タス》ケテクレエ……」
六、馬肉屋的登山法、動物愛の応用。ブウシエの森に囲まれた、ここは遊楽場《カジノ》の喫茶館《キャッフェ》。人目を避け他聞をはばかって、奥まった片隅に会議の席を設《しつら》え、コン吉とタヌが待ち構えていると、ガイヤアルを先登にして三人の山案内《ギイド》が、威風堂々|舳艫《じくろ》を啣《ふく》んで乗り込んで来た。
お定まりの登山綱《ザイル》、氷斧《アックス》、角灯《ランテルヌ》などという小道具もさることながら一行の装《いでたち》というものははなはだもって四分滅裂。細身の繻子《しゅす》のズボンに真紅《まっか》な靴下、固い立襟に水兵服、喉まで締め上げた万国博覧会時代の両前の上着。そうかと思うと、何を考えたか扇子《せんす》なんてのを持ったのもいる。
ひどい藪瞶《やぶにら》みが一人、笑ったような顔をしたのが一人、最後の人物などは、ひどく咳をし、水洟《みずっぱな》を流し、時々ギクッ、ギクッと劇《はげ》しい痙攣を起こすんだ。うち見たところ、田舎廻りの曲馬団員が、これからテントの地杭《ぢくい》を打ちに行こうというような恰好である。
さて、席も定まり、しかるべき飲料もおのおのの体内に適宜に浸潤したと思われるころ、タヌは立ち上がっていよいよ開会を宣言することになった。
タヌ「満堂の紳士諸君。今晩の会議の目的は、だいたいもうガイヤアル君から聞かれたことでしょうが、こうして、諸君にお集まりを願ったというのは、諸君の智慧を拝借して、モン・ブラン登山の、嶄新《ざんしん》奇抜《きばつ》な方法を発見したいためなんです。しかし、ちょっとお断りしておきますが、ボク達は、モン・ブランなんて、山だともなんとも思っていないんだよ。ボク達はガイヤアル君という足手まといがあったので、とうとう目的を遂げずに降りて来たけど本気で登ろうと思ったらだね、モン・ブランだろうがモン・ルウジュだろうが、お茶の子サイサイなのよ。ちょっと断わっておくわ。そこでだね、……いいですか、これからが肝心なところだよ。……そこでボクは一昨日の体験によって、つらつら考えたのよ。この文明開化の世の中にだね、ラ・コートから、頂上まで、わずか八粁《より》か十粁《ごり》の道中に二日もかかって、おまけによちよちと四本の手足を使って這い廻るなんてのは進化の逆行だわよ。……文明のチジョクだよ。……そもそもだね、登山なんてのは、要するに山のテッペンへ駈けあがって、そこで旗を振ったり嚔《くしゃみ》したりすることなんだ。だからボクにいわせると、途中のいざこざは抜きにして、いきなりテッペンへあがってしまえばいいじゃないか、っていうのよ。つまりね、途中葬列を廃し、告別式はただちにサン・ドニの寺院にて……って工合にするのよ。だが断わ
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