チて置きますがね、嶄新奇抜といっても、骨を折らずに楽々と登りたいというんじゃないのよ。モン・ブランに登るなら足一本、前歯一枚ぐらい無くしたって恐れるところじゃないよ。ただね、生命の最後の一線だけは、やや安全に保証されているのでなければ、スポーツなんて無意義だと思うんだ。危険を冒すことだけが登山の最大の意義だというんなら、それはスポーツの軽業《かるわざ》主義だよ。……君、君、そこで嚊《いびき》なんかかいちゃ駄目だよ。……コン吉、君まごまごしないで葡萄酒でも注いで廻ったらどう? ……そこでだね、諸君、今晩はモン・ブラン登山のわずかな可能性のうちで最も安全な部分を発見……、平ったくいえばだね、一風変った登山の方法を発見しようと思うんだよ。だいいち、いく人もいく人も登ったあとから、よたよたと一向変りばえのしない方法で登ったってんじゃ、日本女子の一|分《ぶ》が立たないからよ。……ね諸君、どうせ君達はモグリでしょう。山案内《ガイド》なんてのは看板だけでしょう。……そう話がきまったら、無駄な見栄などを切らずに、ひとつ新鮮な角度から、奇抜な登山法を考えて見てちょうだい。大工なら大工、馬肉屋なら馬肉屋的登山法ってのが必ずあるはずよ。一等賞は三百|法《フラン》……ここへこうやって並べておきますよ。だがね、もう一つ断わっておきますが空からさがって来るのでは駄目、とにかく下から上へ登って行くのでなくては、登山にならないからね。それから、どうせシャモニイ中の連中に眺望鏡でのぞかれるんだから、ひどく目立つことや、大仕掛けなのは採用しなくてよ。……いいですか。じゃ始めてよ。第一番に、向うの端にいる、その笑ったような顔をした人。……さ、君から始めてちょうだい」笑う人「わたくスはクロ・ド・キャアニュそばの動物園で園丁をしておりましたのでス。一ころはルウナ・パアクのような『|ぐるぐる山登り《モンタアニュ・リュッス》』なんてのもありまして、なかなか栄えたものでございまス。その後、とんとハヤ駄目《いけなく》なりまして、獅子を売り、狐を払いしていまスうちに、残ったのはモルモットと犬。……これでは動物園とはいわれねえ、というので、椰子《やし》の木をすこしばかり植えつけて植物園ということにしたのでス。わたくスは植物の方は一向経験がありませんでスから「|ぐるぐる山登り《モンターニュ・リュッス》」の手伝いをしたこともあるから、ひとつアルプスへ行って山案内《ガイド》にでもなろうかア、と思いまして、こちの方へご厄介になりに来たような次第でございまス。早速でスが、わたくスの名案をぶちまけまスと、ま、こういうわけでございまス。……まず羚羊《シャモア》を三匹とっつかめえまス。けれど、それは羚羊といってもただの羚羊と訳が違いまス。なるたけ親子夫婦の情合いの深そうなのを撰ぶんでございまス。生れ立ての羚羊、亭主《おやじ》の羚羊、それから嬶《かかあ》の羚羊とこう三匹つかめえましたならば、まず餓鬼《がき》の羚羊をモン・ブランのてっぺんへ持って行ってくくりつけておく。そこで亭主の羚羊の方は先生さま、嬶の羚羊はお嬢さまが手綱《たづな》をつけて『大平場《グラン・プラトオ》』の下まで引っぱって来るんでございまス。すると、これはしたり! モン・ブランのてっぺんでは手前らの大切な忰《せがれ》が悲しそうに『|父ちゃんや、母あちゃんや《レック・レック・レック》』とないてるもんだから、びっくり仰天して角《つの》の先まで熱くなって、小供可愛いさの一念から崖道、絶壁の頓着なく、捨《しゃ》二|無《む》二に押し登る。『おお、おお、坊や、坊や、お父ちゃんもお母ちゃんも来ましたよ。よしよし、泣くじゃない』と、ここに廻り合いましたる羚羊の親子三人、互いに嬉し涙にむせんでいる時には、ふと気がつくと、先生さまも、お嬢さまも、無事にモン・ブランのてっぺんに登ってござるというわけになりますんでございまス。……はい、どうか三百法ちょうだい」
 七、浮くは沈むの逆なり、千古不滅の真理。藪にらみ「ナニヨ、百姓め、羚羊がどうしたとオ。情合いの深けえ羚羊たア、一|体《て》エどんな面をしてるんでえ。でえいち、てめえのようなトンチキにつかまる羚羊なんかこのへんに一匹でもいたらお目にぶらさがるってんだ。三百法ちょうだい。……ケッおかしくって鼻水が出らア。……ネ、先生、オレの本職ってなア案内人《ガイド》なんてケチなんじゃねえんだよ。オギャアと生れたのはツーロンの軍器廠《アルセナール》の門衛小屋だ。十歳《とお》の時から船渠《ドック》で船腹の海草焼きだ。それから汽鑵《かま》掃除からペンキ塗りと仕上げて、今じゃツーロン潜水夫組の小頭で小鮫のポンちゃんといやア、チッたア人に知られた兄さんなんだヨ。……どうか一度遊びに来チくんねえ。……ね、お嬢さんあっしの名案っ
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