黷ス、あの山形のシャッポ。あの上に日章旗を押したててね、(高い山から谷底見れば――)の一つも歌ってさ、皇国《みくに》の光を八紘《はっこう》に輝やかさではおくべきや、エンサカホイ、ってわけなんだよ。……どう、わかったかい。君が行かないなんていったって、がんじからめ[#「がんじからめ」に傍点]にして畚《もっこ》に乗せたって連れて行くわよ。……どう、ひとつここでやってみましょうか」といって、登山綱《ザイル》をしごきかけると、コン吉はたちまち降参して、
「いや、行きます、お供します。どうか、その、がんじからめ[#「がんじからめ」に傍点]だけはごかんべん願います」と、手を合わした。
「そう。そんならさっそくだけど、あたしの部屋にあるものを、みなこん中へ詰め込んで、ラ・コートの村の旅籠屋《オテル》まで一足先に出発してちょうだい。あの山案内《ギイド》は明日《あす》の夜明けに、そこへ迎いに来ることになってるんだから」
「へい、かしこまりました」と、コン吉が次の間へ入ってみると、さながら大観工場の棚ざらえのごとく、
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フライ・パン、大|薬鑵《やかん》、肉ひき機械、珈琲《コーヒー》沸し、テンピ、くるみ割り、レモン汁絞器《しぼり》、三鞭酒《シャンペンシュ》、ケチャップ・ソース、上靴、小蒲団《クッサン》、ピジャマ、洗面器、マニキュア・セット、コロン水、足煖炉、日章旗、蓄音機、マンドリン、熊の胆《い》、お百草、パントポン、アドソルピン、腸詰め、卓上電気、その他いろいろ……
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という工合に、机の上と下に参差落雑しているので、さすがのコン吉もあきれ果て、
「つかぬことをうかがうようですが、このマンドリン、ってのは一体何の代用に使うのですかね」とたずねると、タヌは口をとがらして、
「馬鹿ね(高い山から)の伴奏を弾くんじゃありませんか」といった。
五、河童《かっぱ》の川知らず、山案内《ギイド》の身知らず。ブルタアニュの漁師の着る寛衣《ブルウジ》にゴム靴という、はなはだ簡便な装《いでたち》をした吃《どもり》のガイヤアルの角灯《ランテルヌ》を先登にして「|尖り石《ピエール・ポアンチユ》」のホテルを出発。ボッソン氷河の横断にとりかかったのは翌朝の午前三時。
見あぐれば淡い新月に照らされて、碧玉随《へきぎょくずい》のような螢光を発し、いまにも頭の上に落ちかかろうとする怪偉な山容は、これぞアルプスの大伽藍《だいがらん》モン・ブランの円蓋《えんがい》。
ガイヤアルのあとに続きますのは狐のコン吉。小山のようなルュック・サックを背中にしょい、納めようのない鉄鍋は、やむを得ずこれを頭にかぶり、フライ・パンとマンドリンを腰の廻りにくくりつけ、右手には氷斧《アックス》、左手には薬鑵、それでも足らずに首からは望遠鏡と肉ひき機械を吊し、洗濯板のように、高低ただならぬ凍った波頭の上を、漂うごとく流るるごとく、寒風の中に汗を流し、呻吟《しんぎん》の声を発して行進する。タヌの方は、ぐるぐると巻きつけた登山綱《ザイル》の中から目だけを出し、愛用のハンド・バッグを小脇にかかえ、楚々《そそ》たる蓮歩を運びたもう様子。
氷河には至るところに青黒い口を開けた地獄の入口がある。この亀裂《クレヴァス》に落ちたが最後、二度とこの世の光りは見られない。ガイヤアルは亀裂《クレヴァス》の上にかかった薄い氷の橋を、ほじくり返しかき廻し、雪か氷か確かめては渡ってゆく。重荷をしょったコン吉にとっては、これは誠に薄氷を踏む思い、踏み破ったらこの世からお暇《いとま》、助けたまえ、神々と、お尻をもたげ、マンドリンの空《そら》鳴りにも胆を冷やしながら、虫が這うようにしてまかり通る。
幾たびかの危難ののち、ようやく『烏《コルポオ》』の岩地《がらば》にたどり着き、その頂きに登ったところで、アルプスの山々は薄い朝霧の中で明け始めた。頂きがまず桃色に染まりおいおい朱に、やがて七彩の氷暈《ハロ》が氷の断面一帯に拡がり始める。風が少し出て鋭い朝の歌を奏し、落石と雪崩《なだれ》の音が遠雷のように峯谷々に反響する。
三人は『烏《コルポオ》』の頂きで手の込んだ朝食をすませ、山稜に沿って南へ『|烏の嘴《ベック・ア・コルポオ》』までくだり、タッコンナの氷河を渡って、いよいよそこからグラン・ミューレの大難場、氷の絶壁へととりかかる。コン吉はこの酷薄無情な氷の璧を見あげていたが、やがて悲鳴ともろ共に、
「タヌ君、いくらなんでもこの移転《ひっこし》荷物[#「荷物」に傍点]のままでは、この崖はのぼれない。この中にある雑品はいずれ僕が弁済することにして、とにかくここへ放棄するから悪しからず」というと、タヌはおもしろからぬ面持で、
「仕様がないわね。じゃお鍋類はいいから、マンドリンと日章旗と三鞭酒《シャ
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