ソるようなところを登るから落ちる。お客さまの方で、どうしても落ちたいとおっしゃるので、アタシ達も泣く泣くそっちの方へご案内するんですが、「おい、落ちなくてもいいよ」とおしゃるなら、まるでニースの国道のような大幅の廻り路をご案内するんでございますヨ。……本当かって、アナタ、いやですヨ。そう一々落ちていたんじゃ、山案内の種切れになるじゃありませんかよウ。そういうアタシだってもう三千度の上は登っていますが、まだこの通り生きながらえて、おしゃべりをしているんですから、こんな立派な生《いき》証拠ってございませんヨ。……ねえ、お嬢さアん。アタシはとりわけご婦人のご案内をいたしますのに妙を得ていますんで、ご婦人のお嗜好《このみ》なら、どんなことでもちゃんと承知しているつもりなんですヨ。なにしろ殿方ばかりをご案内いたしますとねエ、さあ、アタシが危ない、なんてときは薄情でしてねエ。見殺しにもしかねないんですよ。そこへいくとさすがご婦人ですねエ、アタシが危ない時は、ちゃんと助けてくだすって、優しく介抱してくださるから、アタシも安心してご案内できるってもんですヨ。それに、だいいち色っぽいですナ。モン・ブランの頂上の記念石《ドルメン》に腰をかけて、こう、コンパクトなんか出して、チョイ、チョイと顔をたたくナンテのは、いうにいわれない味がありますねエ。ねえ、お嬢さんお供さしてくださいましヨ。いいでしょう……え、日本《ジャポン》……。ははア、日本ってのはどっちの方角だか知りませんが、そんならなおさらのことですヨ。アルプスに日本のご婦人が登ったって記録はまだないんだから、アナタが口開《くちあ》けになるわけですヨ。……こりゃもう大評判になりますネ。シャモニイ中の雄という雄はみな眺望鏡でのぞいちゃのぼせあがって鼻血を出しますヨ。破《わ》れ返るような騒ぎになりますネ。……それにさ、アナタが口開けだってことになればアルプス倶楽部だって黙っていませんヨ。花火をあげるやら、送別会をするやら、テンヤワンヤするにきまってます。ね、お嬢さん、おやんなさいヨ、おやんなさいよウ。せつにアタシおすすめしますヨ。山の方は万事アタシが。
 四、午《うま》年生れは山にて跳るべからず、厄災《やくさい》あり。扉《ドア》開けてつかつかと次の間から出てくると、タヌは、
「コン吉君、すまないけど、あたし、明日《あす》モン・ブランに登ることにしたからそう思ってちょうだい。あんたもまごまごしないで、早く仕度をしたらどう」といいすてたまま、今度は次の間から登山綱《ザイル》を持ち出してせっせと輪を作り、水筒、靴下、油紙といったようなものを、やたらにリュック・サックに詰め出した。コン吉は仰天して、
「うわア、こりゃ情けないことになった。どうしてまたそんな気になったのかね。多分あの吃漢《どもり》の話を真に受けて、アルプス倶楽部に花火をあげさせるつもりなんだろうけれども、君だって、担架《プランキアル》で運ばれて来たあの血綿のような塊を見ないわけじゃなかったろ。氷河へ行けば大きな亀裂《クレヴァス》がある。吹雪は吹く。まるで琺瑯引《ほうろうび》きの便所の壁のように、つるつるした氷の崖なんかがあって、女の子なぞには手も足も出るもんじゃないよ。ねえ、タヌ君、もし雪崩《なだれ》に押し落とされて、下の岩角でお尻をぶったらどうするつもりだね。そんなところへ青痣《あおあざ》をつけて、どうしてのめのめ日本へ帰られるものか。それから僕だって、……これ見たまえ。この僕のガニ股で、どうして西洋剃刀の刃のように狭い氷の山稜《アレート》を伝えるものか。それに僕は、あいにく午年生れで、高いところへ登れば、たちまち目がくらむようにできているんだ。谷底へ落ちてこなごなになってしまってからは、支那人の焼き継ぎでもハンダでも喰っ付きはしないからね。あ、桑原、桑原。……生命《いのち》あっての物種だ、どうか山登りだけは思いとどまってくれたまえ。思いとどまったというまでは、死んでもこれを離さないから」と、リュック・サックにすがってかき口説くと、タヌは、いきなりそいつをひったくって
「なにするのよオ。……チョイト君、君もずいぶんおたんちんね。君がいくらそんな顔をしたって、もうあとの祭りよ。ね、君、コン吉君、ここからモン・ブランのてっぺんまでは、ちゃんと国道がついているのよ。あんまり心配しないでね。……いいかい、コン吉君、よく聞きたまえ。あたしがモン・ブランへ登ろうってのは私事じゃないのよ。……ふらんす・あるまん・あんぐれい、あめりっく・おらんだ・ぽるちゅげえ、と世界中の国々の女の子が、みな一度は登ってるってのに、日本の女の子だけは、みな麓をしゃなしゃな[#「しゃなしゃな」に傍点]散歩して引き上げたってんだから、あたしは、納まらないのよ。ナンダイ! 多寡の知
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