、いきなり卓のうえの葡萄酒を続けさまにあおりつけ、
「お前もここにいたか。……いや、両先生、ここでお目にかかったのは、アヴェ・マリアのお引合せ! かたじけない!」といった。
 三、恨みは深しメリヤスの股引《ももひき》、不具戴天の仇。お話申すも涙の種でがす。この父親といいますのは、近県六市は愚かなこと、アルサス、ルュクサンブウルのあたりまで鳴り響いた天下無双の荒牛《トオロオ》でがんした。一旦、円戯場《アレエヌ》の砂に立ってちょいと嚔《くさみ》をするとヴィル・デ・ポオの小道に砂埃りが立つといわれたものでごぜやした。とりわけて、得意の術というのは、尻尾《しっぽ》の房毛の先で、相手の脇の下をこちょこちょとやる。すると向うは、擽《くすぐっ》たいものだから鼻の孔《あな》を拡げてへらへら笑う、その鼻の孔を角の先へ引っ掛けて相手の平駄張《へたば》るまで円戯場《アレエヌ》のなかを引き廻すんでがす。いや、可笑《おかし》いやら、見事やら、『コルシカの鼻輪』といって、牛|角力《ずもう》を見るくらいの衆なら、今でも噂に出るくらいのものでがす。すると一昨年の夏のことでがした。ちょうどマルセーユの『ヘルキュレス』と
前へ 次へ
全32ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング