よく火を通して来てちょうだい」といったのはまた無理もない次第であった。
 給仕も飛んで来て、しきりに、しっ! しっ! と追い立てるが一向に動かない。そこでコン吉がつくづくと眺めると、どうやら辱知《しりあい》の牛である。
「タヌ君、どうもこれはどこかで見た牛だと思うが、心当りはないかね。それとも照り焼きになるのが嫌いで命乞いに来たのだろうか」と、神秘的なことをいう。そういわれてタヌもしきりにためつしかめつ[#「ためつしかめつ」に傍点]していたが、やがて急に膝を打って、
「これはコルシカのポピノの家にいたナポレオンよ。ほら、額んとこの王冠の形をした斑《まだら》をごらんなさい」
「なるほど、これはコルシカのナポレオン!」
「ま、ナポレオン、ナポレオン! お前どうしてこんなところへ来たの」といいながら、首をかかえて頬ずりすると、ナポレオンはたちまち四つ足を浮き立たせて恐悦し、涎《よだれ》やら目脂《めやに》やら止めどもなく流し、タヌの手やら顔やらでれりでれりとなめあげた。
 すると、波止場の方から息せき切ってかけて来たのはコルシカ人、ジュセッペ・ポピノ。牛と二人を見るより感きわまったもののごとく
前へ 次へ
全32ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング