そのうちに一度お挨拶《ちかづき》にあがって、ご自慢の喉を聞かせていただきたく存じていた、……こと、れろれろと舌をもつらせながら取りとめもなくしゃべり立てると、族長《カボラル》は、
「どれほど御滞留になるか、それだけうかがえば結構でごわす」といい放った。タヌは進み出て、コニャックを注ぎ、腸詰、乾酪の類を持ち出してところ狭いまでに並べながら、
「まったく、一生でも住みたいくらいですよ。もう何から何まで気に入ってしまいました」と答えると、族長《カボラル》は、
「いや、わかりましたじゃ」といって、薄い唇の上に生えた見事な八字髯をひねりながら部屋を見廻していたが、
「以前《もと》はそのへんにいろいろな飾り物がごわしたが、あれはなんとなりました」とたずねた。
「みんな物置きへほうり込んでありますわ」
「ほほう。……鳩が二羽足らんようじゃが……」
「あら、いただいてしまいましたわ。あの一羽は時計の代りに取ってありますの」
「結構ですじゃ。……それから姫鱒の乾物はなんとなりました」
「鱒もいただきましたよ」
 すると族長《カボラル》は、腕組みして何か考えていたが、やがて、急に腕を延してたて続けにコニャックをあおりつけてから、
「さぞ美味でごわしたろう」と、凄味《すごみ》のある声でいった。
「あら、お望みでしたら、まだ残っていますからお持ちくだすっていいですわ。ねえ、コン吉、まだ半分くらい残っていたわねえ」
「あります、あります。ちょっと待ってください」
 と、いって、コン吉は戸棚の中から、無惨にも胴切りにされた鱒を持ち出して族長《カボラル》の前に置いた。族長《カボラル》はしきりにその頭をひねくり廻していたが、
「さようならばこれはちょうだいいたす。……それから念のために申し上げるが……」といって、この小屋は非常に不吉な小屋であって、この借り主は代々非業の最後を遂げること。一人は寝床で胸を刺されて死に、一人は石垣のそばに坐ったまま頭を射抜《いぬ》かれていたこと、以来とかく遺憾千万な出来事が引き続いて起こったようなわけであるから、生命《いのち》が惜しいと思ったら、今のうちに引きあげられるほうが賢明なやり方であること、こんな事を申しあげると当部落の恥辱、かたがた族長《カボラル》たる自分の不名誉でもあるのだが、御両所の生命に関することだから、包まず右まで申し上げる次第である、と語った。それから、そちらの大人のご希望もあったことだから、未熟な節廻《ふしまわ》しではあるが、一齣《ひとくさり》ご披露しよう、といって、くり返し巻き返し同じような唄を歌い、蹣跚《まんさく》たる足どりで帰っていった。
 六、虎か人か亡霊か将《は》た油紙か。族長《カボラル》の物語に違《たが》わず、翌日の夜中ごろからこの不吉な小屋はおいおいとその本領を発揮することになった。族長《カボラル》の話を聞いて以来、コン吉は何の因果か、とかく夜中真近くなると上厠繁数《じょうしひんすう》の趣きであったが、これがまた不幸なことには、厠《かわや》は母屋《おもや》から遠く離れた裏庭の奥の、うっそうと葉を垂れた枇杷《びわ》の木のそばにあるのです。
 その夜も我慢に我慢を重ねたすえ、ついに止むに止まれぬ次第となったので、藁松明《ブランドン》に火をともし、風の音にも胸をとどろかせながら、そろりそろりと厠の方へ歩いてゆくと、眼の前の石垣伝いに漂い歩いている、なんとも形容のつかない朦朧たる[#「朦朧たる」は底本では「朧朦たる」]物の影を見たから、日ごろ小胆なるコン吉は、一たまりもなく逆上して、一|切《さい》夢中に松明《たいまつ》を振り上げ、こいつを物の化めがけて投げつけると、松明はちょうどその足もとまでころがってゆき、幽霊はたちまち裾から火が付いて燃えあがった。幽霊は、
「うわッ」と、ものすごい声で叫びながら石垣の下へ飛び降り、草の上をころげ廻ってようやく火を消し止めると、小走りをしながら雑木林の中へ消え失せた。
 跡をも見ずに逃げ帰ったコン吉は、夜明けまでがたがたと歯の根も合わずに震えていたが、日の出と共にようやく元気を取りもどし、
「タヌ君、これはいよいよ駄目だ、急いでこの小屋を引きあげることにしよう。この小屋ではやたらに人が死んだそうだから、いずれ続々と出て来るに違いない。一人でもあんなに驚くのだから、束になって出て来たら、僕はもう目を廻すよりほかにしようがない」というと、タヌは、
「あら! お化けが出て来たの。耳よりな話ね、今晩はあたしにも見せてね」と勇み立つ。コン吉はうらめしそうにタヌの顔を見ながら、
「見せるも見せないも、僕が傭って来たわけでないから、見るのはご自由だが、僕はもう幽霊の礼奏《アンコオル》なんか沢山だ。なにしろ昨夜《ゆうべ》の幽霊などは下《した》っ端《ぱ》の方はだいぶ燃えたような様子だから、今晩は多分腰から上だけで出てくるつもりなんだろう。いやもう思っただけでもぞっとする」
「油紙でもあるまいし、どこの世界に燃えあがる幽霊なんかあるもんですか。貉《てん》かなんかの悪戯《いたずら》に違いないのよ。今晩また出て来たら鉄砲を撃《う》っておどかしてやりましょう。もし手答えがなかったら、それは幽霊に違いないのだから、引きあげるならそれからでも遅くないよ」

 さて、物置きに投げ込んであった喇叭《ラッパ》銃に煙硝と鹿|撃《う》ちのばら玉をあふれるばかり詰め込み、藁《わら》をたたいて詰めをし、窓の隙間から筒口を出して昨夜《ゆうべ》幽霊が退場した雑木林の入口に見当をつけ、半焼の幽霊いまに目にものを見せてくれようと待っているうちに、おいおいと夜もふけ渡り、幽霊出現の定刻となると、青白い月の光の中に浮び出たものは幽霊にはあらでたくましい一匹の虎。
「うわゥ、うわゥ」と奇妙な声で咆吼《ほうこう》しながら、首を振り腰をひねって、しきりに前庭を遊曳《ゆうえい》する様子。コン吉はたまりかね、この一発なにとぞ虎に命中せしめたまえ! と、八百万《やおよろず》の神々に念じながら、ズドンとばかりに打ち放すと、筒口からは末広形の猛烈な火炎が噴出し、その反動でコン吉は、うしろへでんぐり返り、床に頭を打ちつけてややしばらくはぼうぜんとしていたが、やがて正気にかえり、虎はいかにと煙硝の煙をすかして眺めると、天の助けか、虎は四つ足を天に向けてころがっている。
「や、うまくしとめた! 有難い!」と、二人は急いで扉《ドア》のそとへ駆け出そうとすると、虎の中から現われたのは一人のコルシカ人、脇腹を手でおさえながら雑木林の入口まで這って行ったが、そこで崩れるように草の中へのめり込んでしまった。
 七、コルシカ人を殺せば三界に住家《すみか》なし。これは! と驚きあきれて、コン吉とタヌは扉《ドア》のそばに立すくんでいると、時ならぬ鉄砲の音を聴きつけたタラノの部落民は、てんでに藁松明《ブランドン》とライフル銃をひっさげ、雑木林《マッキオ》の奥から走り出てきたが、そこに倒れているコルシカ人を発見すると、口々になにやら叫びかわしながら、件《くだん》のコルシカ人をかつぎあげ、林の奥に走り込んで行った。
 タヌは瞬きもせずにこの意外な光景を眺めていたが、やがてコン吉を部屋の中へ引きいれ急いで扉《ドア》を閉ざし、息も詰まるような切迫した声で、
「コン吉、しっかりしてちょうだいね。ああ、大変なことになってしまった。怪我《けが》くらいならいいけど、もし殺してしまったんだったら、ただでは済まないわね。あんな真似をしてふざけた方も悪いんだけど、今さらそんなことをいったって仕様がないよ。コン吉、どうする?」と、これはどうやら涙ぐんでいる様子。
 日ごろ気丈なタヌの取り乱したようすを見るよりコン吉は、その場の椅子にへたへたと腰をおろしながら、
「ああ、とんだことになった。どうするもこうするも、こういってるうちにも部落の連中がやってくるかも知れないね、逃げるなら今のうちだと思うけど、果してうまく逃げ終わせるかしら」
「さあ、難しいわね」
「僕も難しいと思う。……仮りにだね、あのコルシカ人が死んだとすると、本当にタラノの連中は僕たちをやっつけるだろうか」
「そう、やりかねないね」
「うわア、それじゃ困る。……憲兵なり看守なりに、われわれを引き渡してくれるのなら、必ずこっちに理があるんだけど」
「ああ、もうしょうがないわね。なんにしろ、びっくりしてやったことなんだから、よく理由《わけ》を話して詫びることにしましょう。それがいけなければ、またその時のことよ、コン吉、今度こそはしっかりしてちょうだいね」
 それにしても、意外な羽目になった。夢も未来もあるものを、コルシカの土民づれの手にかかって、こんな山間|僻境《へききょう》であえなく一命を落すのかと、いずれも悲愴な思いに胸を閉ざされながら、その夜はまんじりともせずに語り明かした。
 八、天国へのマランン競走、三日のハンデ・キャップ。すると、その翌日の日没後、つかつかと部屋に入って来た四人のコルシカ人、驚きあわてる二人の腕を左右からとり、部落まで引きずっていって乏しい橄欖《かんらん》畑のそばの一軒の山小屋の中へ押し入れた。部屋の中には十二三人のコルシカ人が腕組みをして円陣を作り、その中央には、荒削りの板で作った柩《ひつぎ》があって、柩の中には馬のような長い顔をした死人が、口をあいて鯱張《しゃちこば》っていた。
 族長《カボラル》は二人を一段と高い壇の上にすえて、
「さて、御両氏、ここに瞑目しているものは、昨夜御両氏の手にかかって非常な最後を遂げたジュセッペ・ポピノでごわす。これより吾々は同郷人《パトラン》の悲しき最後の勤めを果しまするによって、よウくお目にとめてご覧ありたい」
 そういってから、腰に吊していた匕首《プニャアレ》を抜き、三度死人の頬に触れ、死人の毛髪を少し切り取って胸の小嚢《こぶくろ》に納め、それから柩に向って手をうちながら、荘重な声で、|即席の埋葬《ヴォチェロ》歌を唄い出した。
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こいつは村で一番の射撃の名手であった。
雀の嘴《くちばし》から麦の粒を撃ち落す奴であった。
この地上にはもう撃つものがなくなったので、
それでお前は天国へ行ってしまったのか。
そんなら神様と二人で雲雀《ひばり》でも撃って遊んでいるがいい。
お前の敵は鉄砲持ちをするために、
いずれ後から追いつくだろう。
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 すると、一同はこれも手を打ちながら「いずれ後から追いつくだろう」と、追句《レボレ》を唱った。
 族長《カボラル》は聖句も読みあげ、死人の蹠《かかと》に油を塗り、柩の蓋をすると、六人のコルシカ人は柩をかつぎあげ、低い声で鎮魂歌《レクエイム》[#ルビの「レクエイム」はママ]を合唱しながら墓地《カンポサンタ》の方へ、夕星の瞬く丘の横道をゆるゆるとのぼっていった。
 族長《カボラル》は柩が丘の向うに見えなくなるまで見送ってから二人に向い、
「コルシカ人を手にかけたものは、コルシカ人の復讐を受けなくてはならん。ここに並んだ五人の同郷人《パトラン》のうちの二人がそれを果すのでごわす。それは今日から三日目のアヴェ・マリアの刻限までに果されることになりましょう。では、どうぞ、これでお引き取り下され」といって扉《ドア》をあけて戸外を指した。
 コン吉とタヌは、かねて覚悟はしていたものの、あまりのことの次第に驚きあきれ、しばらくは言葉もなく、林の中をよろめき歩いていたが、
「あゝあ、これでギリギリ結着というところだ。今度という今度は助かるまい。それともタヌ君、どうせやられるものなら、一つ死んだ気で逃げ廻ってみようか!」と、いうと、タヌは首を振って、
「いや、それは無駄よ。たとえ世界中逃げ廻ったって、いずれやられるに違いないのよ。そんなら逃げ廻って苦しむだけ無駄ね」
 コン吉は天を仰いで長大息し、
「いや、そうと決まれば僕も日本男子だ。もう、じたばたするものか! 撃つのか突くのか、なんとでも勝手にするがいい、立派にやられてみせてやろう!」
 あとは互いに手をとり、感慨無量に瞳を見合わすばかり
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