から、そちらの大人のご希望もあったことだから、未熟な節廻《ふしまわ》しではあるが、一齣《ひとくさり》ご披露しよう、といって、くり返し巻き返し同じような唄を歌い、蹣跚《まんさく》たる足どりで帰っていった。
六、虎か人か亡霊か将《は》た油紙か。族長《カボラル》の物語に違《たが》わず、翌日の夜中ごろからこの不吉な小屋はおいおいとその本領を発揮することになった。族長《カボラル》の話を聞いて以来、コン吉は何の因果か、とかく夜中真近くなると上厠繁数《じょうしひんすう》の趣きであったが、これがまた不幸なことには、厠《かわや》は母屋《おもや》から遠く離れた裏庭の奥の、うっそうと葉を垂れた枇杷《びわ》の木のそばにあるのです。
その夜も我慢に我慢を重ねたすえ、ついに止むに止まれぬ次第となったので、藁松明《ブランドン》に火をともし、風の音にも胸をとどろかせながら、そろりそろりと厠の方へ歩いてゆくと、眼の前の石垣伝いに漂い歩いている、なんとも形容のつかない朦朧たる[#「朦朧たる」は底本では「朧朦たる」]物の影を見たから、日ごろ小胆なるコン吉は、一たまりもなく逆上して、一|切《さい》夢中に松明《たいまつ》を振り上げ、こいつを物の化めがけて投げつけると、松明はちょうどその足もとまでころがってゆき、幽霊はたちまち裾から火が付いて燃えあがった。幽霊は、
「うわッ」と、ものすごい声で叫びながら石垣の下へ飛び降り、草の上をころげ廻ってようやく火を消し止めると、小走りをしながら雑木林の中へ消え失せた。
跡をも見ずに逃げ帰ったコン吉は、夜明けまでがたがたと歯の根も合わずに震えていたが、日の出と共にようやく元気を取りもどし、
「タヌ君、これはいよいよ駄目だ、急いでこの小屋を引きあげることにしよう。この小屋ではやたらに人が死んだそうだから、いずれ続々と出て来るに違いない。一人でもあんなに驚くのだから、束になって出て来たら、僕はもう目を廻すよりほかにしようがない」というと、タヌは、
「あら! お化けが出て来たの。耳よりな話ね、今晩はあたしにも見せてね」と勇み立つ。コン吉はうらめしそうにタヌの顔を見ながら、
「見せるも見せないも、僕が傭って来たわけでないから、見るのはご自由だが、僕はもう幽霊の礼奏《アンコオル》なんか沢山だ。なにしろ昨夜《ゆうべ》の幽霊などは下《した》っ端《ぱ》の方はだいぶ燃えたような様子だから、今晩は多分腰から上だけで出てくるつもりなんだろう。いやもう思っただけでもぞっとする」
「油紙でもあるまいし、どこの世界に燃えあがる幽霊なんかあるもんですか。貉《てん》かなんかの悪戯《いたずら》に違いないのよ。今晩また出て来たら鉄砲を撃《う》っておどかしてやりましょう。もし手答えがなかったら、それは幽霊に違いないのだから、引きあげるならそれからでも遅くないよ」
さて、物置きに投げ込んであった喇叭《ラッパ》銃に煙硝と鹿|撃《う》ちのばら玉をあふれるばかり詰め込み、藁《わら》をたたいて詰めをし、窓の隙間から筒口を出して昨夜《ゆうべ》幽霊が退場した雑木林の入口に見当をつけ、半焼の幽霊いまに目にものを見せてくれようと待っているうちに、おいおいと夜もふけ渡り、幽霊出現の定刻となると、青白い月の光の中に浮び出たものは幽霊にはあらでたくましい一匹の虎。
「うわゥ、うわゥ」と奇妙な声で咆吼《ほうこう》しながら、首を振り腰をひねって、しきりに前庭を遊曳《ゆうえい》する様子。コン吉はたまりかね、この一発なにとぞ虎に命中せしめたまえ! と、八百万《やおよろず》の神々に念じながら、ズドンとばかりに打ち放すと、筒口からは末広形の猛烈な火炎が噴出し、その反動でコン吉は、うしろへでんぐり返り、床に頭を打ちつけてややしばらくはぼうぜんとしていたが、やがて正気にかえり、虎はいかにと煙硝の煙をすかして眺めると、天の助けか、虎は四つ足を天に向けてころがっている。
「や、うまくしとめた! 有難い!」と、二人は急いで扉《ドア》のそとへ駆け出そうとすると、虎の中から現われたのは一人のコルシカ人、脇腹を手でおさえながら雑木林の入口まで這って行ったが、そこで崩れるように草の中へのめり込んでしまった。
七、コルシカ人を殺せば三界に住家《すみか》なし。これは! と驚きあきれて、コン吉とタヌは扉《ドア》のそばに立すくんでいると、時ならぬ鉄砲の音を聴きつけたタラノの部落民は、てんでに藁松明《ブランドン》とライフル銃をひっさげ、雑木林《マッキオ》の奥から走り出てきたが、そこに倒れているコルシカ人を発見すると、口々になにやら叫びかわしながら、件《くだん》のコルシカ人をかつぎあげ、林の奥に走り込んで行った。
タヌは瞬きもせずにこの意外な光景を眺めていたが、やがてコン吉を部屋の中へ引きいれ急いで扉《ドア》を閉ざし、息
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