ノンシャラン道中記
南風吹かば ――モンテ・カルロの巻――
久生十蘭

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)駘蕩《たいとう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)天機|洩《も》らす

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#歌記号、1−3−28]

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔Garc,on〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://www.aozora.gr.jp/accent_separation.html
−−

 一、天機|洩《も》らすべからず花合戦の駆引き。駘蕩《たいとう》たる紺碧の波に浮ぶ、ここは「|ニース突堤遊楽館《カジノ・ド・ラ・ジュテ・ド・ニース》」の華麗なる海上大食堂。玻璃《ガラス》張りの天蓋《まるてんじょう》を透して降りそそぐ煦々《くく》たる二月の春光を浴びながら、歓談笑発して午餐に耽る凡百の面々を眺め渡せば、これはさながら魑魅魍魎《ちみもうりょう》の大懇親会。凝血腸詰《ブウダン》をほおばる天使長ガブリエル、泰然と大海老《オマア》を弄《せせ》る馬糞《ばふん》紙製の小豚、羮《スウプ》をふき出す青面黒衣の吸血鬼《ヴァンピール》、共喰いをする西洋独活《アスペルジュ》、呂律のまわらぬライン葡萄酒の大樽、支那茶を吸い込む象の首、――飲むさ喰うさの伴奏《あいのて》には、謝肉祭《キャルナヴァル》の山車《だし》の品定め、仮装行列の趣向の月旦、祭典競馬の優勝馬の予想、オペラ座にて催される大異装舞踏会《ヴェグリオーヌ》の仮装服《ドミノ》の相談、ヴェニス王女の御艶聞、イヴァン・モジュウヒンの御挨拶の前景気、と、いつ果てるともみえない鴉舌綺語《げきぜつきご》。さるにても、季節中の魅惑たる花合戦、花馬車競技も、もはや旬日の間に迫ったることとて、衆口|談柄《だんぺい》は期せずしてその品隙《とりざた》に移って行く。
 花馬車品評会とは謝肉祭《キャルナヴァル》中の大呼物、贅沢中の贅沢、粋と流行の親玉。名花珍草をもって軽軻《けいか》を飾るに趣向をもってし、新奇を競い、豪奢を誇り、わずか数時間のお馬車の遊行に、数万|法《フラン》をなげうって恬然《てんぜん》たるは常住茶飯事《まいどのこと》。合衆国|河岸《がし》に雲集する紳士淑女と高価なる花束を投げ合い、さて軽歩して競技場《スタアド》に至れば、数十人の気むずかしき審査員は、花の取合せ、幻想《おもいつき》の巧拙、搭乗者《のりて》の雀斑《そばかす》の有無、馬の顔の長さまで詮索《あげつら》って、いずれも一点非の打つところなきを第一等として、金五千|法《フラン》と名誉の鞭《むち》を授与するほか、今年の優勝者は来年の謝肉祭《キャルナヴァル》に市賓として招待され、花馬車競技の会長たるの名誉をも与えようという華々しき規定《さだめ》ゆえ、素《もと》より金銭《かね》に糸目をつけぬ封侯富豪、我れこそは今年の一等賞を獲得して、金銭に換え難き光栄をいだき取ろうと、額をたたき顎《あご》を撫でて珍趣妙案の捻出に焦慮瘠身するも道理《ことわり》。※[#歌記号、1−3−28]|大人《モンセニュウル》、今年の御趣向はもはや御決定になりましたか。ひとつ御披露願いたいもので。※[#歌記号、1−3−28]ナニ、天機もらすべからずサ。実物を見たまえ実物を見たまえ。※[#歌記号、1−3−28]|閣下《ジェネラル》、今年はキャヴァリエールの方面までお手を伸されたそうですが、花畠の買占めはチト横暴ですナ。※[#歌記号、1−3−28]先んずれば人を制すサ。貴公もおおいに戦略を用いて対抗するがよかろう。※[#歌記号、1−3−28]|御内室《マダム》、今年のお馬車の標題は何と申しますネ。※[#歌記号、1−3−28]はい、「天国の夢」と申します。素馨《ジャサント》の天使にリラの竪琴を飾るつもりでございますヨ。※[#歌記号、1−3−28]では、手前は一枚|上手《うわて》をいって、「地獄の番卒」とでもいたしましょうかネ。――喧々囂々《がやがやもうもう》、耳を聾《ろう》するばかり。
 すると、ここに、海ぞいの窓ぎわに席を占めた男女二人の若き東洋人、満堂の噪聒《そうてん》乱語を空吹く風と聞き流し、※[#歌記号、1−3−28]ナニ、花馬車の一等賞はこっちのものサ。と、ゆうゆうと冷凍菓子《グラス》をすすっているのは、どうやら子細《しさい》ありげな有様であった。
 やがて、午後一時四十分、ニースはランピア港の税関|河岸《がし》を離れたコルシカ島行きの遊覧船は、粋士佳人を満載して、鴎《かもめ》と紛《まご》う白き船体に碧波を映しながら、遊楽館《カジノ》の大|玻璃窓《はりまど》の中に姿を現わし来たる。折しもあれやバロン山で打ち出す三発の号砲は、午後二時より催される謝肉祭仮装大行進発程の合図。満堂の異形の群集は、明《あか》らひく曙《あけぼの》の光に追われし精霊《すだま》のごとく、騒然《どやどや》と先を争って、廻転扉の隙間からかき消すごとく姿は消えて跡白浪《あとしらなみ》。
 二、踊り踊るならマッセナの広場で。一月上旬の顕出節《エピファニイ》から、五月下旬の基督昇天祭《アッサンシオン》まで、碧瑠璃海岸《コオト・ダジュウル》一帯に連る名だたる遊覧地、――就中《とりわけて》、ニース市は約半歳の間、昼夜を分たぬ大遊楽、大饗宴の熱閙《ねっとう》と化するのが毎年の恒例。空には花火、地には大砲、日がな毎日どんどん・ぱちぱち。ヴェニス提灯、大炬《アーク》灯。疲れをしらぬ真鍮楽隊。キャフェの卓には三鞭酒の噴泉、旗亭の食料庫には鵞鳥と伊勢海老の大堤防。昼は百余の山車《だし》の行進、花合戦。夜はオペラの異装舞踏会《ヴェグリオーヌ》、市立遊楽会《カジノ・ミュニシバル》の仮装会《ルドウト》。それでも足らずにマッセナの大広場を公開して、踊ろうと跳ねようと勝手にまかす。ニース全市は湧き返るような大混雑、大盛況。有銭無銭の大群集は、それぞれ費用と場所をわきまえて、ただもう一|切《さい》夢中に法楽する。――虚空《こくう》に花降り音楽きこえ、霊香《れいきょう》四方《よも》薫《くん》ずる、これぞ現世極楽の一|大顕出《エピファニイ》。

 さるにても同行タヌキ嬢の虐待酷使を受け、ついに心神耗弱したるコントラ・バスの研究生|狐《きつね》のコン吉氏は、その脳神経に栄養を与えるため、常春《とこはる》の碧瑠璃海岸《コオト・ダジュウル》に向けて巴里《パリー》を出発したが、その途中において数々の不可解なる事件に遭遇。かてて加えて、芬蘭土《フィンランド》の大公爵と自称する、マルセイユ市の馬具商、当時、南海サン・マルセルの精神病院《メエゾン・ド・サンテ》在住のモンド氏なる人物に逅遇《かいぐう》。神秘的なる生活を余儀なくされ、涙ぐましき因縁《いんねん》により一時は中華民国人にまでなりあがり、はなはだ光栄ある日夜を送っていたが、幸いモンド氏も納まるところに納まり、このぶんではどうやら一命は取り止めた、と、ホッと一息。されば今度《このたび》この地において花馬車競技があるというにより、日本人と中華民国人の微妙なる差別を広く一般に示すはこの時なり。是が非でも一等賞を獲得し、かたがたもっていささか皇国《みくに》の光を異境に発揚せずんばあるべからず、とコン吉においてはタヌもろ共、ああでもない、こうでもない、「首」ひねったあげく、やがて妙趣天来。念を入れたうえにも念を入れ、手配り万般、ここに相整いまして、いまやその日を待つばかり。
 三、白地に赤き日の丸の旗翻るニース海岸。合衆国河岸《ケエ・デゼ・ダシュニ》に沿って今日の花合戦のために仮設されたる※[#4分の1、1−9−19]|粁《キロ》三階の大桟敷《トリビュウヌ》。花馬車はすなわちこの桟敷《さじき》の前を軽歩して、桟敷の貴縉《きけん》紳士と花束の投げ合いをしようという仕組み。さるにても花馬車には、欧米に名だたる美形佳人が搭乗するのが古来の法式ゆえ、ふらんす・あるまん・あんぐれい、秀才・豚児の嫌いなく、この期《ご》に来たり合わしつる身の妙果。世界に著名《なだか》き美人のお手から、せめて腐れた菫《すみれ》の花束でも、一つ投げられて終生の護符《おまもり》にしよう、席料の三百|法《フラン》、五百法は嫌うところにあらず、と逆《のぼせ》あがってぞ控えたり。花束に未練はあっても出費《ついえ》を好まぬ温和なる人々は、アルベエル一世公園を貫く車道の両側にて、一脚五法の貸し椅子に納まり、そのうしろにして、爪立《つまだ》ちしてなお及ばざるは音楽堂の屋根、または棕櫚《しゅろ》の幹、噴水盤の頭蓋《あたま》などによじ登り、「花と美人の会合《ランデブ》」を、せめてその眼にて瞥見し、もっぱら後学の資《たし》にしようと、まだ明けやらぬ五時ごろからひしめき集う大衆無慮数万。碧瑠璃海岸《コオト・ダジュウル》の人口をことごとくここに集めたかと思わるる盛況。
 やがて定刻間近く檸檬《シトロン》と夾竹桃《ロオリエ・ロオズ》におおわれたるボロン山の堡塁《ほうるい》より、漆を塗ったるがごとき南方|藍《あい》の中空《なかぞら》めがけて、加農砲《キャノン》一発、轟然《どうん》とぶっ放せば、駿馬《しゅんめ》をつなぎたる花馬車、宝石にも紛《まご》う花自動車、アルプス猟騎兵第二十四連隊の軍楽隊《ファンファール》を先登に、しずしずと競技道路《スタアド》に乗り込み来る。まっ先に登場したのは、「|王室の象《エレファント・ロワイヤル》」と名づけし、ミラノの自動車王グラチアニ夫妻の花馬車。四頭の白馬にひかせた四輪馬車《ファイトン》の上には、白色のフランス大薔薇と珍種の蘭をもって作りたる巨象をすえ付け、その背には、薄紗《うすしゃ》の面怕《ヤシマック》をつけたアフガニスタンのバレエム王女が乗っている。その次に立ち現われたのは、族館「地中海宮《パレエ・ド・ラ・メディティラネ》」の「大鳥籠《ヴォリエール》」と名付けし二輪馬車《ヴィクトリヤ》。空色の香紫欄花《ジロツフレ》に瑠璃草《ミオティス》で作った鳥籠の中でさえずるのは駒鳥にあらで、水仙黄《ナルシス・ジョオヌ》の散歩服に黒|天鵞絨《ビロウド》の帯をしたる美貌の閨秀《けいしゅう》詩人オウジエ嬢。続いて亜米利加《アメリカ》の百万長者ビュフォン夫人の「金の胡蝶」、聖林《ハリウッド》の大女優リカルド・コルテスの「ゴンドラ」、ドイネの名家ド・リュール夫人の「路易《ルイ》十五世時代の花籠」、……清楚なるもの、濃艶なるもの、紫花紅草、朱唇緑眉、いずれが花かと見|紛《まご》うまでに、百花繚乱と咲き誇る。期せずして桟敷《さじき》の上よりは、ミモザの花、巴旦杏《アマンド》の枝、菫《すみれ》・鈴蘭・チュウリップと、手当り任せに投げつければ、車上なるはかねて用意の花束に、熱き接吻を一つ添え目ざす方へと返礼する。桟敷の上では、これをつかもうと乗り出して墜落する奴、帽子を飛ばして禿頭を露出する奴、採取網を振り廻して、他人の頭に瘤《こぶ》をこしらえる奴、てんやわんやの大騒ぎ。
 すると、この大騒動のまっただ中へ、耳を聾《ろう》するばかりの轟々《ごうごう》たるエンジンの地響を打たせ、威風堂々と乗り込み来たったのは、豪猪《やまあらし》の如き鋭い棘《とげ》を蠢《うごめ》かす巨大なる野生|仙人掌《さぼてん》をもって、全身隙間なく鎧《よろ》いたる一台の植物性大|戦車《タンク》。アレアレッと驚き見まもる暇もなく、砲塔をゆるやかに旋回させ、八|糎《センチ》速射砲の無気味《ぶきみ》なる砲口を桟敷の中央に向けたと思うと、来賓席の二段目を目がけて、たちまち打ち出す薔薇やアネモネの炸裂弾。息もつかせぬ釣瓶打《つるべう》ち。桟敷の上からも棕櫚《しゅろ》の木のてっぺんからも、たちまち起こるブラヴォ、ブラヴァの声。湧き返るような大喝采《だいかっさい》、大歓呼のうちに、やがて、砲塔の円蓋を排して現われたのは、眉美《まみうるわ》しき一人の東洋的令嬢《にほんのおじ
次へ
全4ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング