はなはだしきは額に玉の汗をうかべ、髪を引きむしってしきりに焦慮苦心する様子は、さながら学年試験の試験場の光景に異ならない。
 コン吉とタヌは、遠慮会釈もなく人垣を分けて、最も回旋盤《ルウレット》に近い椅子に割り込み、まさに美膳に臨もうとする美食家のような会心の笑みを浮べながら、ゆうゆうと卓《テーブル》の風景を観賞していたが、やがて、コン吉は咳《がい》一|咳《がい》、
「どうだね、そろそろ始めることにしよう。見廻すところ花々しい勝ち方をしている諸君もあまりいないようだ。ひとつ、この青羅紗の上へ、驚天動地の旋風を巻き起こして諸君の目を醒ましてやろうではないか」というとタヌは、うなずいて、
「急ぐにも当らないようなものだけど、じりじりなま殺しにされるよりも、ひと思いにやられた方が、モナコ公国だって助かるでしょう。じゃ気の毒だけど、そろそろ始めましょう。……コン吉、兎の足は持ってるわね」
「大丈夫だ、いま撫でるところだ。……それはそうと、どこへ賭《は》ったっていいようなものだが、ともかく、最も距離の短いところへ置くことにしよう。飛んで来る賭牌《ジュットン》にしたってあまり疲れないですむわけだからね」と、いいながら、大判の名刺ぐらいもある、紺青の千法の賭牌《ジュットン》を、すぐ手近かの MANQUE《さきめ》 と刷ってある青羅紗《タピ》の上へ、まるで古い財布でも捨てるように、ポイとばかりに投げ出した。
 |廻し役《クルウピエ》は、※[#始め二重括弧、1−2−54]|賭けたり、賭けたり《フェエト・ヴォ・ジュウ・メッシュウ》※[#終わり二重括弧、1−2−55]と、しきりに勧誘していたが、おおかた一座が賭《は》り終えたのを見すますと、やがて廻旋軸《シランドル》を右に廻し、その運動の方向の反対側へ、白い象牙の玉を投げ込んだ。
 玉は仕切りの横金に衝突しては飛びあがり、ニッケル盆の斜面を駆けあがってはすべり落ち、はなはだ活発な運動をしている様子。
 一座|闃《げき》として声なく、ただ聞えるものは、白骨が打ち合うようなカラカラと鳴る玉の音ばかり。
 コン吉は、野兎の足を衣嚢《かくし》から取り出し、念を入れて三度鼻の頭を撫で、様子いかにと待ち構えていると、玉はおいおい活気を失い、|廻し役《クルウピエ》が※[#始め二重括弧、1−2−54]|賭け方最早これまで《オン・ヌ・ヴァ・プリユ》※[#終わり二重括弧、1−2−55]と、披露《アノンセ》するとほとんど同時に、MANQUE《さきめ》 とは縁のない PASSE《あとめ》 の23[#「23」は縦中横]に落ち着いた。
 お、これはいかん、とコン吉が、丸天井もつん抜けるような胴間《どうま》声を張り上げ、
「|小僧や、ここへ来い《ギャルソン・ヴィヤン・イシイ》! |小僧や、ここへ来い《ギャルソン・ヴィヤン・イシイ》!」と、けたたましく連呼したが、青札《ジュットン》は急につんぼにでもなったのか、泰然自若として身動き一つするでもなく、さればとて恥入ったような面持をするでもなく、のめのめと金方《バンキエ》の熊手《ラットオ》にさらわれていってしまった。
 これは! と、あきれて、声もなく顔を見合わしている二人のそばへ、四方八方から駆け寄って来たのは、空色の家令服に白い長靴下をはいたカジノの給仕《ギャルソン》達、およそ二十人あまり、
「|何か御用で《ムッシュウ・エダアム》?」と、うやうやしく一斉にお辞儀をした。狐につままれたような顔をして給仕《ギャルソン》の大群を見廻していたコン吉は、おろおろと舌をもつらせながら、
「なんですか? 別に用事はありません」と、いうと、給仕《ギャルソン》たちは声をそろえて、
「でも、ただ今、(|給仕来い!《ギャルソン・ヴィヤン・イシイ》 |給仕来い《ギャルソン・ヴィヤン・イシイ》!)と、続けさまにお呼びになりました」と、申し立てた。
 八、○《わ》は〇《ぜろ》に通ず不可思議なる霊感。どうやら詐欺に引っかかったようだ、とおそまきながら気が附いたのは、およそ四千法ほどすってしまってからのこと。二人はカジノの正面にある、朱塗りの床几《バン》に腰を掛け、鼻っ先に截《き》り立った白堊の山の断面が、おいおい赤から濃い紫に変ってゆくのをわびしげに眺めながら、言葉もなく鼻を突き合していたが、コン吉はやがて力なく、
「日モナ戦争は日本の敗けだ。われわれが抵当にならぬうちに、どうだろう、タヌ君、もうそろそろ退却しようではないか。僕はもう、城も、遊艇《ヨット》も欲しくない。ニースのホテルへ帰って心おきなく給仕《ギャルソン》を呼びつけてみたい。それが僕の望みだ」と、半ば慰め顔にこれだけいうと、タヌは激昂の余憤がいまだおさまらぬらしく、
「あたしの望みはね、一〇一号をこのズックの袋に入れて、松の木へ吊して、いやっていう
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