ほどお尻を蹴っ飛ばしてやりたい、ってことよ。モナコの征伐はそれからでもいいわ」と、しきりに甲声をあげているその背中を、ポンとたたくものがある。振り返ってみると、そこに立っていたのは、白い医務服を着たモンド公爵。
 二人はそれを見るより、左右から腕をとって、
「うわア、モンド公爵」
「ま、どうしてここへ!」と、口々にたずねると、モンド公爵は、意味不明瞭な微かな微笑[#「微かな微笑」に傍点]をもらしながら、
「あはあ、ちょっと散歩」と、軽くうなずいてみせた。
「でも、侍従長がよく外出させましたね」
「彼奴《きゃつ》、椅子にゆわえつけられていました。この白いのが……」と、医務服の裾をつまんでみせ、「彼奴《きゃつ》の式服です。わたくしがこれを着ていると、やはり侍従長ぐらいには見えるでしょう。……王宮の生活は無味閑散で困ります。今日はぜひとも散歩をしたくなったので、ご城中へうかがいましたら、こちらの方角へ御台臨になったということで御|追踵《ついしょう》いたしました。……時に、どうです。賭球盤《ルウレット》ですか。銀行賭戯《バカラ》ですか」
 そこで二人は、今までの仔細《いきさつ》を手短かに述べると、公爵はあまたたびうなずいて聞いていたが、やがて、空を見上げて雲の流れを見、そばの松の樹の幹に掌《てのひら》を当てて、何かしばらく考えていたが、
「今日は南が吹いていますね。……湿気も温度もちょうどいい。珍らしく良い状態《コンディション》だ。よろしい、やりましょう! いらっしゃい!」と、鋭くいいすてたまま、つかつかと遊楽館《カジノ》の中へ入っていってしまった。
 二人はあっけにとられて見送っていたが、なにしろ、そろそろ夕風も冷たくなって来た、いささが[#「いささが」はママ]空腹の模様でもある、公爵を捨ててニースへ帰ろうか、それとも、遊楽館《カジノ》に引き返し、運を公爵の天に依頼して、もう一度モ軍対日仏連合軍の戦闘を開始しようかと協議を始めた。『生きた花馬車』ならびに一〇一号事件以来、多少人生に懐疑をいだくようになったコン吉は、あまり思わしくない顔色をしながら、
「なにしろ、僕はもうしばしば公爵の霊感には手を焼いている。ことに今度は、相手が賭球盤《ルウレット》だからどんなことになるかわかりゃしない。どうせ、まとも[#「まとも」に傍点]なわれわれがやったって勝てないのに、どうしてまともでない[#「まともでない」に傍点]公爵の勝つわけがあるものか。僕なら、早く帰って、またマカロニでも喰べてひっくり返ってる方がましだ」というと、タヌは、
「でもね、コン吉、どうせ賭球盤《ルウレット》だって狂人《きちがい》でしょう。公爵も、ま、それに近いわけね。だからこの二つを組合わせると、ことによったらことによるかも知れない、と思うのよ。どうせここに持ってるのは千法とちょっとよ。さっき皆負けてしまったことにすれば、これで公爵の珍技を拝見するのも悪くないわね。万一、ひょっとしてあの公爵が勝ったら、賭球盤《ルウレット》よ、大きなことをいうな! だわ」
 公爵は二人が賭博室《サル・ド・ジュウ》へ入って来るのを待ちかねて、
「あなたがたの負けたのはどの卓《タアブル》ですか」とたずねた。コン吉が食堂に近い No. 6 の卓《タアブル》を指し示すと、公爵は、|玉廻し役《クルウピエ》の隣りの椅子にムズとばかりに坐りながら、
「ひとつ総仕舞《そうじまい》にして、花を飾らしてやらなければならん」
 公爵は天井を仰ぎ、人々の顔を眺め、悠然《ゆうぜん》と、あちらこちら見廻していたが、やがて、窓越しに見える巴里珈琲店《キャフェ・ド・パリ》の屋根にとまっている鳩を一羽、二羽……と数え始めた。
「お! みなで十七羽いる! さ、十七へ百五十法。十七の隣数《ヴォアザン》、16[#「16」は縦中横]17[#「17」は縦中横]、17[#「17」は縦中横]18[#「18」は縦中横]、14[#「14」は縦中横]17[#「17」は縦中横]、17[#「17」は縦中横]20[#「20」は縦中横]……というふうに、これへ二百法ずつ。残りは全部|黒《ノワアル》と奇数へ!」
 コン吉とタヌが青羅紗《タピ》の上を這い廻るようにして、賭牌《ジュットン》を配置する間もなく、出た数はまぎれもなく17[#「17」は縦中横]であった。金方《バンキエ》が熊手の先で押して寄越した二万八千法の賭牌《ジュットン》の小山を忙しく例の大袋へ投げ込んだ。
 公爵は、またもやしきりに眼玉の視角を変えながら、直感と虚心をさがしていたが、突然、窓のそとを指差して叫んだ。
「あ、あそこへ子供が大きな輪を廻しながらやって来る! さ、御両氏、急いで0《ゼロ》へお賭《は》りなさい! できるだけ沢山に!」
 ちょうど二十五万法勝ったところで卓《タアブル》 No.
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