arc,on〕, Viens ici《ギャルソン・ヴィアン・イシイ》!(小僧や、ここへおいで!)と、こういうのです。この兎の足でもって三遍鼻の頭を撫でてから、なるたけ大きな声でこの呪文を唱えるのですヨ。論より証拠。一つやってみましょう」
そこで一〇一号は、樺色の野兎の足で、うやうやしく鼻の頭を三度撫で、
「|〔Garc,on〕, Viens ici《ギャルソン・ヴィアン・イシイ》!」と、叫ぶと、不思議や模擬貨幣《ジュットン》は、まるで生き物のように、目にも見えない速さで卓《テーブル》の上から躍りあがり、待ち構えている一〇一号の掌《てのひら》の中へ飛び込んで来た。
「さ、両殿下も一つ実験して御覧じろ。模擬貨幣《ジュットン》に聞えるように、なるたけ大きなお声で。……よろしいですナ。模擬貨幣《ジュットン》をキチンと白鳥の眼玉の上へ置いて。……そうそう、その通りですヨ」
六、大は小を兼ぬ粗布製の手提《てさげ》金庫。亡者を地獄へ送り込む火の車のように、めざましい焔色《ほのおいろ》に塗り立てたモンテ・カルロ行きの乗合自動車は、橄欖《かんらん》の林と竜舌蘭《りゅうぜつらん》と別荘を浮彫りにしてフエラの岬を右に見て、パガナグリア山の裾《すそ》に纒繞《てんじょう》する九折《つづらおり》の道を、目まぐるしいほどの疾駆を続けてゆく。
コン吉は世界に名高きこのコルニッシュの勝景も眼に入らばこそ、広漠たる幸運の平野のまっただ中で、ただもう一|切《さい》夢中に逆上し、取り留めない空想の足踏みをするばかり。
「なにしろ、十|法《フラン》でやって一回勝てば三百五十法、百回で三万五千法か……うわア、とんでもないことになった。ア、スチャチャンのチャン……」と、昨夜《ゆうべ》からの計算を、また飽きもせず繰り返してはしゃぎ立てると、タヌはいまいましそうな顔で、
「君はずいぶんおたんちんね。十法なんてそんなまだるっこいことでどうするもんですか。いきなり千法で始めるのよ。突撃よ。つまり、日モナ戦争だわ。陸軍の比率は百対零よ。それに新兵器でしょう。(小僧や、ここへおいで!)よ、驚くもんですか」と、叱呼《しっこ》しながら、シャルムウズの袖をまくり、河童頭《かっぱあたま》を一振り振って勢い立ったる有様は、さながらシノンの野におけるジャンヌ・ダルクのごとく意気沖天の概《おもむき》があった。コン吉は膝を打って、
「お! それは名案だね。一回勝てば三万五千法、百回で三百五十万法。……するとなんだね、三日もカジノへ通ったら、モナコ公国の国庫は破産することになりはしないかね」
タヌは快心の笑をもらしながら、
「そうよ。そのくらいでたいてい店仕舞《みせじまい》になるわね。ベネガスクとコンダミイヌの没落よ。なんでも持っていらっしゃい。みな抵当に取ってあげるわ。グリマルディ城、よし来た。プランセス・アリス号、よろしい。海洋博物館、〔c,ava〕《けっこう》 よ。ルウドウィック二世君、……これはすこし困るわね」
余りにも過激なタヌの威勢に、コン吉はいささか不安になったものか、急に声をひそめ、
「しかし、そうむやみに勝っていいものかね。噂によれば、大勝ちしたら生きては帰れないともいうが、せっかく勝ったところでズドンなんてのは有難くないからね。なにしろ、命あっての物種《ものだね》だ」と、弱音《よわね》を吹くと、タヌは、情けなそうにコン吉をみつめてから、
「君の真綿のチョッキには、金比羅様《こんぴらさま》のお札が縫い込んであるそうだから、たいていの弾丸《たま》なんかとおりはしないでしょう」と、無情《つれ》ないことをいう。コン吉は、なるほどとうなずいて、
「いや、それもそうだ。でもネ、三百五十万法なんていう模擬貨幣《ジュットン》は、一体どこへしまったらいいのかね。もちろん、衣嚢《かくし》なんかにははいり切れはしまい」と、いうとタヌは、
「よくまあ君はくだらないことを苦にする人ね。心配無用よ。これを御覧なさい」といって、腰掛けの下から紙包を出してその紐《ひも》を解くと、そのなかから、小馬なら一匹まるのまま、尻尾も余さず入るかと思われるような、巨大なズック製の買物袋が現われた。
七、日軍肉迫すモンテ・カルロの堅塁《けんるい》。金|鍍金《めっき》とルネッサンス式の唐草と、火・風・水・土の四人に神々に護《まも》られた華麗《けばけば》しき賭博室《サル・ド・ジュウ》。十二台の青羅紗の卓《テーブル》の上には、美しいニッケルの旋回盤《ルウレット》が、『六日間自転車競走』における自転車の車輪のごとく、朝の八時から夜中の二時までやむ時もなく旋回する。卓《テーブル》の周囲に蝟集《いしゅう》する面々は、いかなる次第に属するのか、みな一様に切迫した面持をし、手帳に数字を書き込み、何やら計算し、忙しくささやきかわし、
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